涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

学校からもらってきた「視力検査結果のお知らせ」がD判定だった件

息子が先週の木曜日に学校からもらってきた「視力検査結果のお知らせ」の結果がD判定でした。

 

D判定とは、「0.3未満」です。

 

息子は約2年前に初めて眼鏡をかけることになりました。

だから、今回も「視力検査結果のお知らせ」をもらってくることはわかっていましたが、まさかD判定とは思っていませんでした。

 

ゲームもするしYouTubeも見ているので、少しは悪くなっているかもしれない予感はあったのですが、まさか、0.3以下になっているなんて……。

眼鏡をかけた矯正視力も「右はC判定(0.6~0.3)」「左はB判定(0.9~0.7)」でした。

 

これは、眼鏡作り直しか……。

 

私も旦那も二人とも子どもの時から眼鏡をかけていたので、息子も遺伝的に悪くなるのはわかっていましたが、それでも、できるだけ悪化する時期が遅かったらいいなと思っていました。

 

でもこうなったら仕方ないな。

息子と行った眼科の待合室で

「お母さんも、小学校5年生の時くらいにすごく視力が落ちたんだ。成長期って視力が変わりやすいみたいだから。眼鏡をかけて矯正できたら大丈夫だから」

と息子に言いながら、自分自身にも言い聞かせました。

 

30分くらい待って息子の順番になりました。

どれくらい悪くなっただろう?

そう考えると落ち着きませんでした。

 

5分くらい経って息子が帰ってきてから、

「どうだった?」

そう聞いたら

「うーん」

といまいち要領を得ませんでした。

「あまり重くなかった」

と言うから何だろう? と思ったら、眼鏡の度を測るために使うレンズを差し替える検査用の眼鏡の重量が前ほど重くなかったと言うことでした。

 

もう少し待って、今度は診察室に呼ばれました。

そこで言われたのは、

「問題ありません。このままで大丈夫です」

と言う意外な言葉でした。

「え? このままで大丈夫なんですか?」

どうやら、今日は裸眼で「右0.8」「左0.5」は出ているようでした。

アルファベットの判定に置き換えると「右B判定」「左C判定」でした。

眼鏡をかけた矯正視力は「右1.5 A判定」「左1.2 A判定」でした。

 

ホッとしました。

 

「良かったです。でも学校だと結構悪かったみたいなんですよね」

「うん。多分ね。直前まで近くを見ていて、急に遠くを見て、焦点が合わないうちに検査が始まって終わっちゃったんじゃないかと思うよ」

なるほど!

 

眼鏡がずれて見えずらくなる可能性もあるので、眼鏡屋で調整してもらってね。

夏休みにまた見せてね。

と言われて診察は終わりました。

 

目に力が入りやすいと言うことで、眼鏡をかけてからずっと処方されている目薬の追加をいただいて帰りました。

 

結果的には大事に至らず良かったのですが、もし本当に視力が落ちたと言われても、心当たりはあるような生活をしているのも事実です。

 

「そろそろ目を休めて!」

声はかけていますが本人が認識しないことにはなかなかうまくいきません。

 

親として声はかけ続けるけれど、本人が、目を休めたり遠くを見たり自主的にしてくれることを希望します。

 

でも、とりあえず、良かったです。

 

離任式の花束の予算

今日は、ゴールデンウィーク明けにある離任式で異動になった先生に渡す花束を予約しに行きました。

 

毎年花束はPTAからプレゼントするのですが、この準備をするのが会計の仕事なんです。

 

で、一昨年と昨年は、500円のハンカチと500円の花束を作ってもらってプレゼントしたんですね。

 

でも、このね、「500円の花束を作ってください」って言うのがとてもしんどいんです。

だって、花束ってなんとなく3000円くらいしますよね?

だから「500円で花束を作ってほしいのですが……」と言うと、あまりいい顔をされないんですよね。

 

一昨年に何軒か回って「無理」と断られたりもしました。

その中で、「大きな花束はできませんけど……」と言いながら素敵な花束を作ってくれたお花屋さんがありました。

で、昨年もそこにお願いしました。

今年もお願いしようかな? と思っていたら、「500円でお願いするのって心苦しくない?」って新しい会計のパートナーに言われたんです。

ドキッとしました。

心苦しいけれど、それでも、その花屋さんだったらやってくれると思っていたので。

甘えていたんですよね、厚意に。

でも本当は、苦しかったんですよ、私も。

「確かにね、心苦しいんだよね。だけど、前任の方から、500円のハンカチと500円の花束を買ってって引き継いだんだ。だから、どうにかそれに従わないといけないと思ってたんだ」

彼女は、

「でもその金額で頼むのは、ちょっと今の時代非常識で、お花屋さんに悪いんじゃないかな」

って言った。

図星だったので、胸が痛かったけど、そうだなと思った。

じゃあ、会長も変わったから相談してみようと言う話になった。

 

それで、今年からハンカチをやめて1000円で花束を作ってもらうことにした。

もちろん、昨年までのお花屋さんで。

予算が一人1000円になったものの、やはり心苦しさはあった。昨年までの気持ちの半分くらいではあったけど。

「1000円の予算ですみません」

「いいえ、1本からお売りしていますから、ご予算で花束作れますよ」

笑顔でそう言ってくれてホッとした。

だったら、500円で……と言いたい気持ちも出てきたけれど、今年で会計の仕事が最後の私がいるときに変えないと、また次の人もその慣習を引き継ぐか、あるいは検討しないといけないのだから、これはこれでいいのだと気持ちを収めた。

 

会員から集めている大事なお金だから、勝手に予算は増やせないけれど、それでも、私たち役員も、他の保護者の方と同じ立場であるわけなので、ボランティア精神を持ちつつも、意見も言わせていただきて、できるだけ気持ちよく仕事がしたいなと思った。

 

今までの会長も本当によくやってくれていて、頭が下がるけれど、今度の会長は、「なるべく働かないPTAにしたい」とよく言っている。

そのためにどうしても必要なものは残すけれど、削れるものは削ろうという姿勢が見られる。

 

私も知らず識らず、意味を考えるよりも前例をなぞっていたところがあるので、「なぜ?」「本当に必要か?」「変えられないか?」を考えながら、1年かけていい感じで仕事を引き継げたらいいなと思う。

 

花束を用意するのは大変だけど、離任式に出られるのは役得だと思う。

お世話になった先生に直接「ありがとうございました」と言えることに感謝して、できることをできる範囲で頑張ろう。

息子の初めてのバタフライの進級テスト!

今日は、少し色めき立って皮算用して、絶句してガッカリして、そして、反省した。

 

これは、小一時間ほどの中で起きた、私の感情の変化だ。

 

息子のスイミングスクールのテストを見学した時のことだった。

 

このブログにも何度も書いているのだけど、息子はスイミングスクールに通っている。

年長の春からだから、もう5年過ぎた。

 

水に顔をつけられないところから、3年半かかり、ようやくクロールで25m泳げるようになった。

そのあと、背泳ぎ、平泳ぎを泳げるようになり、そして今バタフライを習っている。

 

今日はその初めてのテストだった。

 

今までのペースからすると、息子には申し訳ないが新しい泳ぎ方を習い始めて最初のテストではまず受からないと思っていた。

 

息子の練習風景は、2階にあるガラス張りの見学席から見ることができるのだけれど、新しいクラスになる時とテストがある時以外は最近は見ないことにしている。

 

見ると、どうしても泳ぎ方や態度に物申したくなったり、一人ぼっちでつまらないそうにしているのを見ると私が切なくなったりしてしまうからだ。

本人が本意でないスイミングスクールに送り込みながら見ないのも申し訳ないと思った時もある。

けれど、戻ってきた時に、私がイライラしているのはもっとよくないと思うようになった。

 

私は私で夕飯の食材を買ったり、あるいは、喫茶店で読書をしてご機嫌でいた方が帰り道もお互い気分がいい。

 

そんなわけで、バタフライの練習の姿を見るのは初日に続き今日は2回目だった。

初日は足だけの練習だったから、どれだけ泳げるようになっているかは全くわからなかった。

 

準備体操の後、流しの練習で、まずは、背泳ぎから始まった。続いて、クロール。そして、平泳ぎ。

美しい、というわけではなかったけれど、頑張って泳いでいた。

そして、いよいよバタフライ。

 

最初は、足だけだったようで、コーチに少し直されていた。

ああ、頑張っているのはわかるけど、もう少しかな?

想定内だった。

やっぱりな、今日、受かることなんてないよな……。

そう思っていた。

 

しかし、最後に腕をつけたバタフライ。

コーチに顎を引くようにアドバイスをされて、頷いて泳ぎ始めた息子の姿に目を見張った。

泳げているのだ。

しかも美しい。

あーでも途中で立ってしまうのかな? と思ったら、しっかりと25m泳いでいたのだ!

すごい!

もしかして! もしかすると! 今日合格しちゃうんじゃない?

 

途端に色めきだった。

いや、でももしかしたらまぐれかもしれない。

失礼ながら、そう思いなおした。

 

ところが次の息子の番で、もう一度泳いだ時も、さっきと同じくらいうまく泳いでいた。

 

これはもしかして、もしかしちゃう?

 

もしも、今日、合格したら、受付で新しい色の帽子を買える!

頑張ったご褒美に、ゴーグルも買っちゃおうかな?

今使っているのって、幼稚園の時に買ったやつだし!

バタフライ泳げるようになったら辞めたいって言ってたけど、来月は新しい色の帽子のクラスで頑張ってもらって、その間に気持ちが変わったらいいな!

 

そんな風に、皮算用し始めた。

 

いよいよ、テスト。

息子の番。

 

コーチの合図にしたがって、息子は泳ぎだした。

 

あれ? ちょっと、どうした?

 

順番が最後だったからか、ぼんやりしていたからか、息子は何を思ったか、平泳ぎを泳ぎ始めてしまった。

数回、水をかいたらコーチに遮られた。

ジェスチャーでバタフライの手の動きを示された。

息子は、ハッとしたように、その場に立ち止まると、一度戻ろうとした。

しかし、コーチはそこから泳ぐように指示した。

息子は気を取り直して、バタフライを泳ぎ始めた。

美しい泳ぎ方だった。

悲しいほど上手だった。

 

これは、ダメだよね……やっぱり。

 

コーチのよっては、2回泳がせてくれるコーチもいるので、ちょっとだけ期待したが、もう泳がせてはくれなかった。

 

残念。

 

結果、やはり合格できなかった。

不合格の理由は、やはり、テストで勘違いして、他の泳ぎ方をしたからだった。

 

息子に

「そうか、残念だったね。いやーでも、本当に上手に泳いでいてすごかったよ! 綺麗に泳いでいた! あー本当に残念だね」

と言った。

 

で、残念と言いすぎてしまったと思って、

「こんなこともあるよね」

そう言って背中をさすってみた。

息子は頷いていた。

 

その後、約束していた靴を買って帰った。

一瞬忘れては、また残念な気持ちが蘇ってきた。

息子は、何にも言わなかったから、口に出すのは今度は控えた。

 

帰り道、なんかの話の流れで、前の校長先生の方がよかったという話になった。

この4月から校長先生が変わったのだ。

へー、意外って思った。

「なんで前の校長先生の方が良かったの?」

 

息子の昨年度のクラスは、学級崩壊気味になって、一時的に校長先生も介入してくださった時期もあった。

その時に息子の口から校長先生の話は出なかったので、びっくりした。

 

話を聞いてみると、前の校長先生は「スモールステップで指導してくれた」「叱るときはしっかり叱るけど、褒めるときはしっかりと褒めてくれた。そのメリハリが良かった」

ということだった。

よく見ているなと思った。

 

そこまでは、穏やかな気持ちで聞いていられたのだけれど、

「お母さんと正反対で……」

と言われた時に、ムッとした気持ちになった。

「それはどういうこと?」

ちょっと突っかかって聞いたら、息子にとって、私は、急かす人らしいのだということがわかった。

 

それを聞いてハッとした。

え? 私、結構、スモールステップを提示しているつもりけど、と思った。

ただ、思い当たったのは、そのスモールステップを踏むことは確かに急かしているかもしれないということだった。

それに、スモールステップを提示することが面倒になって、「とりあえずやってみて!」ということも確かにあると思い当たった。

表面上スモールステップを提示しても、そのステップを今踏むか、いつ踏むのかと焦る気持ちが伝わってしまっているのだと反省した。

 

「じゃあどうしたらいい?」

本当にどうしたらいいかわからなくなって聞いてみたら

「わかんないよ。そんなの自分で考えて」

息子にそう言われた。

ちょっと突き放されたようでしょんぼりした。

「でもさ、お母さん、どうしても、勉強しようとか、お風呂に入ろうとか、もう寝る時間だよってことは言うことになるよ。全部自分で管理してくれてら言わないこともできるかもしれないけど」

「うん、そうだよね」

結局、結論が出ないまま、家に着いた。

食事を作って、ご飯を食べてから、なかなか宿題に取り掛からない息子にやはり

「勉強しちゃおう」

って言った。

 

まだ、しばらく、そうやって急かすことはしてしまうと思うけれど、それでも、今回の会話でわかった息子の気持ちを、ちゃんと受け止めて、改善すべきことはしようと思う。

 

スモールステップを提示するだけじゃ足りなかったのかもしれない。

「息子のペース」を大切にすること、それが足りなかったような気がする。

 

息子が、残念ながらスイミングのテストで合格できなかったことから、たくさんのことに気づかせてもらった。

そのことに感謝しながら、また息子を応援しようと思う。

 

 

 

 

 

 

「文章を書く仕事がしたいんです」と言いながら……

「文章を書く仕事がしたい」

そう思っていた。

今も、そう思っていると思うのだけど、正直よくわからなくなっている。

 

少しばかり文章を書くことに慣れていて、ほんの少し書ける方なのではないかと思っていたのだけど、最近思い知ったんだ、自分は大したことがないってことに。

 

いざ、記事を書こうとしても、なかなかうまくいかない。

記事にするということに慣れていない、経験不足、ということなのであるとは思う。

だから、今、私がやるべきことは、どうすれば相手に伝えられるだろうか? と考えながら、量を書き続けることなんだと思うのだけど、また悪い癖が出て

「なんのために書きたいと思っているんだろう?」

って考え始めてしまい、立ち止まってしまったのだ。

 

文章を書く仕事が本当にしたいのだろうか?

本当は、人前でしゃべりたいのに、その勇気がないから文章で伝える方へ逃げているのかな?

しゃべるのが無理だからって、書くことだったらできるって思っているんじゃないかな?

そんな風に「書くこと」を選んだことを「書くこと」自体がなめんなよって怒っているのかもしれないな……。

 

なめていたわけではないんですよ。

 

必死になって謝ってみても、自分に対して後ろめたさがあるから、ごまかせない。

文章を習ったはずなのに、今や「なんとなく」書いているところがある。

そうやって、思ったまま書いた方が気持ちが載るからってちゃんと構成とか考えて書かなくなってしまったから、面白いものが書けなくなっているのかもしれない。

 

また、初心に戻ってしっかりやりなさいよっていうことなんだろうな。

 

ああ……でも、こうして書いてみて、ただ自分の実力不足にがっかりしてしまっただけだと気がついた。

 

それに……

 

もう一つ、個人的に問題がある。

 

最近、本当に「変わりたい自分」がいる。

いや、変えたいのは認知や考え方であって、このままの自分にOKを出したい自分がいる。

でもまだそれができていない。

それもあって、今は、いろんな思いや考えが浮かぶのだけれど、それにOKが出せずに、なかったことにしたい気持ちも強い。

そうして、文章を書く気持ちもしぼんでしまっていた。

 

だけど、そんな、カッコ悪い私も、私なんだから、むしろ書いておけばいいじゃないかと思う自分もいる。

 

確かなのは、「誰に何を伝えたいのかを考えて書く記事」も、「自分の気持ちを書きつづる文章」も、やっぱり書き続けないと、磨かれないということ。

 

ライターになりたいと思ってて、ほんの少しだけれど、記事を書いてお金をいただけることも出てきて、本当にありがたいわけだから、自分の非力が悲しいけれど、もう少し頑張ってみよう。

 

ダメな自分を受け止めるチャンスかもしれない。

 

そうだ、やろう。

 

 

頑張っていない私でも、愛してくれた?

今日、実家の母と電話で話をした。

母はもうすぐ80歳。

 

2週間前には、緑内障白内障で見えづらくなった目のために

「何にもすることなくなってしまって、つまらない毎日」

と母は言っていた。

その母が、今日は、少し前向きになって

「見えづらいなりに、今が一番動ける時なのだから、仲間の詩吟の発表会を聞きに行ってくることにした」

と、前よりも明るい声で言っていたので、ホッとした。

嬉しかった。

 

ゴールデンウィークに家族で食事をする約束の詳細を決めてから、また少し話した。

 

その時に、母が

「みかはいつも頑張っているからすごい」

と言ってくれた。

 

褒め言葉なのだけれど、今モヤモヤしているからか、あまり素直に受け止められず、ちょっと自己肯定感の話をしたくなった。

私の自己肯定感が低いって話。

 

私は、小学校、中学校の時には、確かに、結構勉強を頑張っていた。

なぜ、そんなに頑張れたのか? 自分でもよくわからないけれど、最初は、テストでいい点を取ると両親が

「頑張ったね!」

「すごいね!」

って言ってくれることから、もっと頑張ろうって思ったのだと思う。

でも、いつしか、「成績の良い私」のイメージが壊れるのが怖くて、走り続けるしかなかったように思う。

高校生になって、自分よりも地頭の良い、勉強のよくできる人たちに出会って、ショックを受けるのと同時に、ホッとしたことを覚えている。

プレッシャーから解放されたのだ。

それで、勉強しなくなって、成績は落ちて、希望の大学に行けなくて、今度は劣等感に苛まれて、まあ、それから色々あったのだ。

 

で、私は

「一生懸命頑張っている私じゃないと価値がないと感じてしまったんだ」

と電話口の母に打ち明けた。

母は、電話口で見えないけれど、きょとんとしていた感じがした。

そして、しばらくして

「私は、特に何もできなかったから、それなりに頑張っていただけ」

そう、母自身のことを話し始めた。

 

え?

私は驚いた。

私のその話って、聞き流す感じのもの?

 

私が「頑張っている自分じゃないと価値がないと感じてしまう」ということは、今の私にとっては本当に重要な問題であり、故意ではないにしても、両親が、「頑張った私」を褒めてくれたことがきっかけに思っているところがある。

「頑張らない私」を認めていなかったような気がしたけれど、そういうわけではなかったのかしら?

 

聞き取れなかったのかと思って、もう一度話を私の話に戻して話してみても、ピンときていないようだった。

 

「結果ではなくプロセスを認めるようにしているんだ、私は」

自分が親になってそう思ったんだと伝えたんだけれど、

「そうなんだね」

って言われて終わった。

 

なんか、なーんだ、という心境になった。

 

事実は一つであって、それをどう捉えるかがみんな違う。

捉え方で、見える世界が変わるんだよね。

それはわかっているけれど……。

 

頑張っていない私もOKって、もしかすると、両親は思ってくれていたのかな?

 

頑張っていない私もOKって、思いたいのに思えない自分が今、ここにいるけれど、もう少ししたら、思えるのかもしれないとちょっと期待が持てた。

 

でも

「頑張っていない私でも、愛してくれた?」

とは、聞けなかった。

 

やっぱりちょっと怖かったからだ。

 

そして、子どもが気にしているほど、親は何の気なしに発言しているのだと感じた。

だから私の何の気なしに発した言葉も、息子を傷つけているかもしれないし、そうでなかったとしても影響は与えているんだよな。

 

それは、恐ろしくもあるけれど、仕方のないことなんだよな。

せめて、傷ついたと気持ちを伝えてくれた時には、真摯に向き合おうと思う。

 

あの時、絶対的な存在だった両親も、ある一人の親だったにすぎない。

完璧ではなかったのだ。

それはちょっと切ないけれど、私も、完璧には、どうしたってなれない。

だったら、自分なりに精一杯やるしかない。

時には頑張って、時には力を抜きながら……。

 

 

 

 

 

好きであることと、受け止めることは違う気がする

自分がやりたいからやっているはずのことが、本当は、やるべきという思いに囚われているのかもしれないと思うと、悲しい気持ちになる。

 

「〜したい」と「〜すべき」が混乱して、本当はどうしたいのかわからない。

 

考えすぎないで、とりあえず行動しよう。

 

そう思って行動してみても、気持ちが追いつかないことによって、さらに混乱しているような気もするし。

 

気持ちが置いてけぼりに感じても、進んだことによって、視界が開けることもあるし、今はあまり考えずに進んだ方がいいとも思うんだけど。

 

そんなモヤモヤした気持ちの中でも、得意なことを引き受けた分野では、それなりに人に喜んでもらって存在価値を確認している。

 

だけど、他者に認めてもらってようやく、自分の存在を認められる状態。

 

「ありのままの自分を丸ごと受け止めること」

 

実はとても難しいなと感じている。

 

自分を好きであることと、丸ごと受け止めることは違うんだなって感じるのは、なんだかんだと私は自分のことが好きなのだ。

 

好きというか、とても興味がある。

興味があるし、好きだからこそ、欠点を見たくなくて、丸ごとは受け止められないのかもしれない。

 

認知が歪んでいることもわかった。

 

とりあえず、今はそんな感じだと、書き留めておきたい。

新人さんに仕事を教えるにあたり気をつけてること

今日は、PTAの会計の仕事を新しい相方に教えた。

引き継いだと言いたいところだけれど、今年度は、彼女と二人で会計をやるから、引き継ぎではない、説明だ。

 

彼女は息子と同級生のお子さんの他に、その下にも二人お子さんがいる方だ。

まだ年度の初めなのに悪いなと思ったけれど、来年度ももう一年は会計をやってくれる心持ちがあるか聞いてみた。

そのつもりと言ってくれたのでホッとした。

 

役員は1年ごとに立候補や推薦を募り決めるけれど、実質的には少なくとも2年はやらないとうまく回らない。

各ポジションごとにやはり経験者がいた方がスムーズだからだ。

 

近隣の小学校の事情を交流会で聞いたら、ある小学校は、同じポジションは2年満期でやることになっていて必ず1年目と2年目がいるらしい。

 

結果的に2年ではなく、最初から2年満期で引き受けるのは大変だとも思うけれど、うちの小学校は1年でやめる人もいれば、結局3年やったり、ポジションを変えて7年くらい役員の人もいるから、2年と最初から決めた方がある意味公平感はあるかもしれない。

まあ、そもそも役員をやっている時点で、他の保護者の方との公平感はないけれど……。

 

今日は、任期について話したいわけではなくて、新しい人に新しい仕事を説明することで大切にしていることを書きたくて書いている。

 

私は、当然のことながら、私自身に仕事を教わったことはないので、本当にわかりやすいのかどうかはわからないのだけど、可能な限り相手の立場に立って説明しているつもりだ。

 

「ちなみに……」

とか

「私はこれが最初理解できなかったんだけど……」

といった余談が多いので、それが苦手な人にとっては必ずしもわかりやすくはないと思うけれど、わりと、わかりやすいといってもらい、ホッとすることが多い。

 

今回も気にしたのは、まず、全体像について説明してから、詳細を説明しようとしたことだ。

 

年間のスケジュールと、繁忙期はいつなのかなどについて一覧表を作成し説明した後、細かい話をした。

 

なぜなら、私が教えてもらった時には、詳細から教わってパニックになりかけたからだ。

教えてくれた人と私の相性があまり良くなかったのかもしれないけれど、しばらくの間頭の中に常に「?」があった。

 

私が質問しまくった時に、教えてくれた先輩がイライラしているのもわかったし、いつも

「前も説明したと思うけれど……」

と前置きされてさらに落ち込んだ。

本当に、前に説明されて私が覚えていなかった時もあるけれど、明らかに初めて聞く時にもそう言われて悲しく思ったこともあった。

 

決して、面倒見が悪い人でもなく、悪意がある人でもなかったのだけれど、なんか合わなかった。

 

私が自分がこうして教えてくれたら嬉しかったなって思うように説明しようとはしているけれど、今回、私から説明を受ける人がそれを「よし」とするかどうかはわからないけれど、できるだけサポートしながら、一緒に進めたいと思う。

 

私は、自分でなんでもやってしまう方なので、それは気をつけようと思う。

仕事をふることも、思いやりであることを肝に銘じ、できるだけ楽しくやっていきたいと思う。