今日、実家の母と電話で話をした。
母はもうすぐ80歳。
「何にもすることなくなってしまって、つまらない毎日」
と母は言っていた。
その母が、今日は、少し前向きになって
「見えづらいなりに、今が一番動ける時なのだから、仲間の詩吟の発表会を聞きに行ってくることにした」
と、前よりも明るい声で言っていたので、ホッとした。
嬉しかった。
ゴールデンウィークに家族で食事をする約束の詳細を決めてから、また少し話した。
その時に、母が
「みかはいつも頑張っているからすごい」
と言ってくれた。
褒め言葉なのだけれど、今モヤモヤしているからか、あまり素直に受け止められず、ちょっと自己肯定感の話をしたくなった。
私の自己肯定感が低いって話。
私は、小学校、中学校の時には、確かに、結構勉強を頑張っていた。
なぜ、そんなに頑張れたのか? 自分でもよくわからないけれど、最初は、テストでいい点を取ると両親が
「頑張ったね!」
「すごいね!」
って言ってくれることから、もっと頑張ろうって思ったのだと思う。
でも、いつしか、「成績の良い私」のイメージが壊れるのが怖くて、走り続けるしかなかったように思う。
高校生になって、自分よりも地頭の良い、勉強のよくできる人たちに出会って、ショックを受けるのと同時に、ホッとしたことを覚えている。
プレッシャーから解放されたのだ。
それで、勉強しなくなって、成績は落ちて、希望の大学に行けなくて、今度は劣等感に苛まれて、まあ、それから色々あったのだ。
で、私は
「一生懸命頑張っている私じゃないと価値がないと感じてしまったんだ」
と電話口の母に打ち明けた。
母は、電話口で見えないけれど、きょとんとしていた感じがした。
そして、しばらくして
「私は、特に何もできなかったから、それなりに頑張っていただけ」
そう、母自身のことを話し始めた。
え?
私は驚いた。
私のその話って、聞き流す感じのもの?
私が「頑張っている自分じゃないと価値がないと感じてしまう」ということは、今の私にとっては本当に重要な問題であり、故意ではないにしても、両親が、「頑張った私」を褒めてくれたことがきっかけに思っているところがある。
「頑張らない私」を認めていなかったような気がしたけれど、そういうわけではなかったのかしら?
聞き取れなかったのかと思って、もう一度話を私の話に戻して話してみても、ピンときていないようだった。
「結果ではなくプロセスを認めるようにしているんだ、私は」
自分が親になってそう思ったんだと伝えたんだけれど、
「そうなんだね」
って言われて終わった。
なんか、なーんだ、という心境になった。
事実は一つであって、それをどう捉えるかがみんな違う。
捉え方で、見える世界が変わるんだよね。
それはわかっているけれど……。
頑張っていない私もOKって、もしかすると、両親は思ってくれていたのかな?
頑張っていない私もOKって、思いたいのに思えない自分が今、ここにいるけれど、もう少ししたら、思えるのかもしれないとちょっと期待が持てた。
でも
「頑張っていない私でも、愛してくれた?」
とは、聞けなかった。
やっぱりちょっと怖かったからだ。
そして、子どもが気にしているほど、親は何の気なしに発言しているのだと感じた。
だから私の何の気なしに発した言葉も、息子を傷つけているかもしれないし、そうでなかったとしても影響は与えているんだよな。
それは、恐ろしくもあるけれど、仕方のないことなんだよな。
せめて、傷ついたと気持ちを伝えてくれた時には、真摯に向き合おうと思う。
あの時、絶対的な存在だった両親も、ある一人の親だったにすぎない。
完璧ではなかったのだ。
それはちょっと切ないけれど、私も、完璧には、どうしたってなれない。
だったら、自分なりに精一杯やるしかない。
時には頑張って、時には力を抜きながら……。