今日は、小5の息子のスイミングスクールの日だった。
再三、このブログに息子のスイミングの話を書いているのだけど、初めて読む方のために説明させていただくと、息子は、幼稚園の年長からスイミングスクールに通っていて、今6年目になる。
HSC(ひといちばい敏感な子)でもある息子はとても慎重なので、最初水をとても怖がった。
毎回、スイミングに行くことを嫌がっていたのだけれど、小学校に入った時に学校のプールで困らないように、という一心で、泣き続ける息子を、私は鬼のようにスイミングスクールに連れて行った。
人よりも、時間がかかったけれど、クロール、背泳ぎ、平泳ぎをマスターし、今バタフライを習っている。
この5年4ヶ月のうちに、波はあるものの、泳げるようになっても、息子はスイミングスクールは未だに嫌がっている。
けれども、本人も、「できなかったことができるようになったことへの達成感」、「泳げるようになって学校のプールが嫌ではない状態」に関しては、「スイミングスクールへ行ってよかった」と結果的には思っているようだ。
5年4ヶ月のうちの3分の2くらいの期間は、私は息子と周りの子と比べて、進みが遅い息子に対してイライラしていたのだけど、周りの子がある程度泳げるようになってスクールをやめてしまったため物理的に比べなくなったこと、そして、今や、「早く泳げるようになること」よりも、「できるだけ長くスイミングスクールに通ってくれること」を私も旦那も望むようになっているので、「早く合格してほしい」とは思わなくなっている。
「できるだけ長くスイミングスクールに通ってくれること」を望むようになったというのは、息子は完全に「インドア派」なので、週1回のスイミングスクールが唯一の運動にあたるためだ。
せめて週に1回だけでも体を動かしてほしいと思っているのだ。
こうして、書いてくると、息子の意思というよりも、親の気持ちで習い続けているスイミングスクールなのであるということが明白なので、それを再確認して落ち込むのだけど、ここで話を今日の出来事に移したい。
今日は、息子の小学校で「水難事故防止教室」が5、6時間目にあった。
保護者も見に行っていいということだったので、行ったら、私を含めて3人しか来ていなかった。
小学校も高学年にもなると、働いている人も多くなるし、今更わが子の様子を見たいという気持ちも薄まるのか、授業参観の時も人が減るから、そんなものかもしれない。
私は、昨年はパートで働いていて、「水難事故防止教室」の様子が見られなかったので、今日は時間もあったので喜んで見に行ったわけだった。
水着の上に、長袖、長ズボン、スニーカーを身につけ、また2リットルの空のペットボトルを使用し、3分間水に浮く練習とか、わざと水の流れを作ってそこに浮く練習とかいろいろやっていて、こうしたことを経験させてもらうと、いざというと時に役に立つなと感じた。
そんな中、息子も最初は笑顔で取り組んでいたのだけど、途中でうっかりプールの水を飲んでむせてしまい、1人だけプールサイドに座っていた時間があった。
その様子を見ていたら、本当に苦しそうで私までつらくなった。
しばらく休んでから、最後の訓練には参加していたのを見届けて、私は学校を後にした。
息子のスイミングスクールの練習日に学校のプールがあることは本当に残念なことなのだけど、曜日を変えたばかりなので、疲れているのを承知でスイミングスクールに連れて行っているのだ、最近は。
で、今日も、朝の時点で「今日は、大変なのはわかるけど、スイミングスクールだから、よろしく」と私が言って、息子も渋々ながら頷いていたのだれど……。
さっきの「水難事故防止教室」の様子を見ていたら、普通に水着で泳ぐよりも体力を使っている感じがして、この後またスイミングに行くことが気の毒だと感じ始めていた。
せめて、息子の好きな、グミとゼリーを準備しようとコンビニに寄った帰り道、ポツポツと大粒の雨が降り出した。
息子に折りたたみ傘を渡しておいてよかったなと思ったのだけど、夏休み前に大荷物で帰ってくるかもしれず、大丈夫かな? とも思った。
私はかろうじて大雨が降ってくる前に家に帰ることができた。
しかし、結構大雨が降ってきて、息子をスイミングスクールに連れて行くべきかどうか迷う気持ちが私の心の中に現れた。
さらに、いつもだったら、15:40くらいには帰ってくるはずなのに、息子は16:00になっても帰ってこなかった。
着替えが長引いたのか、授業が長引いたのか、いろいろ考えながら、待っていると、息子が16:10にようやく帰ってきた。
ドアをかけると大荷物を持ち、ずぶ濡れになって、どんよりとした顔をした息子が立っていた。
スイミングスクールに遅刻しないで行くには、遅くとも16:25には家を出ないといけない。
いつもだったら45分間くらいおやつを食べたり、ゲームをして気持ちを切り替えてからどうにかこうにか出発するのだけど、それには、今日は15分間しかない。
これは難しい。難題だ。
だから、もういいや、今日は休もう。休ませよう。
そう思って「お疲れ様、今日は休むことにしよう」と私は息子に伝えた。
どんよりとしていた息子の顔はみるみるうちに晴れた。
「本当? ありがとう」
急いでスクールに電話をしたけれど、欠席の連絡の締め切りの1時間前に間に合わなかったため、この欠席分の振替は他の日に取れないと言われた。
わかっていたことだったので、「わかりました」と伝えて電話を切った。
さて。
私の目算というか、希望としては、息子にはもっと疲れていてほしかった。
敷いた布団に、雪崩れ込むように吸い込まれて眠ってくれてもよかったくらいだ。
しかし、息子はすぐにゲーム機を手に取り、ゲームを始めた。
ちょっと、それだと話が違う!
ゲームができないくらい疲れていてくれないと、「スイミングスクールを休ませた」正当な説明ができない気がして、困惑した。
「スイミングを休んだんだから、たくさんゲームしては困る」
とわけのわからない説明を私は息子にした。だけど
「わかったよ」
そう息子は言って、結局30分だけ、ゲームをして、その後勉強して、なるべく早く寝るんだよ、ということにした。
元気にゲームをしている息子を見ていたら、それだったら、もう少し頑張ったら、スイミングスクールに行けたんじゃないの? という気持ちが生まれた。
もし息子が「今日は疲れているんだ。だから、休みたいんだ」と私に言って、「わかった。じゃあ今日は休もう」と言ったのだったら、「おいおい話が違うぞ」と注意できるかもしれないが、今回は私主導で休みを決定したのだから、息子に文句も言えない。
だから、私の気持ちはモヤり出したのだ、きっと。
みるみるうちに回復して元気になっていく息子を横目に、私はなぜこんなにモヤって、イライラしているのだろうか、と考えてみた。
すると、私には「嫌がる息子を説得すること」「息子と揉めること」「嫌がる息子を連れてスイミングスクールに連れていくこと」を今日やる体力と気力がなかったのだと気がついた。
そして、どうにか連れて行っても、「1日に2回も好きでもないプールに入るのは嫌だよね」「本当に体力的にキツくて泳ぐのが本当に辛かったらどうしよう」という不安も生まれるのだろうなと予測したのだ。
ああ、でもやはり一番は、揉めるのが嫌だったんだな。
息子としては、嫌だけど行かないといけなかったスイミングがなくなって、やったーと
ゲームをやったまでのことだった。
宿題も少ないし、これは嬉しい以外の気持ちはないはずだ。
はぁ……。
子どもと習い事については、それぞれの家でスタンスやルールがあるだろうから、ひとくくりには言えないけれど、私は、「正当」あるいは「相当」な理由がないと、息子のスイミングスクールは休ませてこなかった。
だから、今回の欠席は「正当」あるいは「相当」なのか? について疑問に思ったのだ。
どうなんだろう?
あ。
しばらく考えていたら、気づいてしまった。
「私自身が理由で休むことにしたのだ」ということを認めたくない私がいるのだということに。
「子どもが嫌がる習い事をずっと続けさせること」についても、いろんな考えがあるだろう。
続けさせながらも、その反対意見にも一理あると思っているからこそ、時々心がヒリヒリとする。
続けさせることによって得たものもあるが、それが唯一の正解でもないとも思う。
「もうやめてもいいよ」って言いたい自分。
だけど、キリのいい「バタフライ習得」まではやってほしい気持ち。
運動不足だから、せめて週1回は運動してほしい気持ち。
いろいろ存在している。
とても矛盾している。
私の中に矛盾した気持ちが混在してぐちゃぐちゃになっていることが嫌なんだ。
だけど、それが自然であり、人間ということなんだ。
人間って素晴らしいのと同時に、すごく影の部分もある。
両方あってひとつであり、私も人間なんだけど、その部分がね……。
バカみたいなんだけど、こうして主張しながらも矛盾だらけなんだけど、そのことが悲しくて、だけど、認めたくて……。
とりあえず、今回は、私が、息子と揉めるのが嫌で、息子のスイミングスクールを欠席にした、という事実があることは認めようと思う。
そんな自分を許そうと思う。
そんな日もある。
息子が元気なら、それに越したことはないじゃないか。
明日は終業式だ。
私は息子とがっつり同じ時間を過ごす予定の夏休み前の、貴重な一日のひとり時間を満喫しよう。
不完全な自分を、その凸凹を愛せるようになりたい。
まだまだなかなかスムーズにできないが、少しずつ。