涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

自分で、自分の可能性を信じられますように……

今朝、ふと「普通」っていう概念って、実態がありそうでないなって思ったんですよね。

 

例えば、100点と0点、80点と20点といったいろんな点数の人がいて平均点が50点になるわけだから、実際に50点の人が意外にいなかったり、

 

平均的な人がいたとしても、その人は「普通」を意識して合わせにいっているだけかもしれない。

 

もしかしてそんなこともあるのかな? と考えていたら「流れるプール」を思い出したんですよね。

 

流れるプールっていっても、どこかの施設のそれじゃなくて、小学校とかで先生が

「みんな、時計回りで回ってー」

とか指示して、自分たちの動きで作る方の「流れるプール」だけど。

 

それを、小学校の低学年の時はどうやってこの流れを作っているんだろう? 機械かな? とか思ったほど、あの流れは強力で、逆らおうとしても無理だったんですよね。

 

そしてある時、その流れを「自分たち」で作っているんだと気づいたら、なんか「すごいな」って思ったんですよ。

 

で、その時の感動は大事にしたいんだけど、今は、ちょっと「怖いな」とも思うんです。

 

何がって「人が自分たちで流れを作って、それに逆らうことが難しいこと」が……。

 

でもその流れを作っている「人」というのは、本当は「個性豊かないろんな人々」なんですよね。

 

人は誰でも素晴らしい個性を持っていて、誰にでもいつでも可能性があるんだってことをつい忘れがちだけど、

 

「流れるプール」ではモブキャラだったり、エキストラと感じてしまうかもしれないけれど、

 

「平均的な」「普通の」人っていうのは実はいないかもしれなくて、いたとしても無理に合わせてにいっているかもしれない。

 

だから、

 

一人ひとり、もっと自分そのものを愛して、自分の可能性を信じたり、自由になってもいいんじゃないかなー

 

それができたら本当に素敵だろうなー

 

って、今朝、卵焼きを焼きながらふと思ったんですよね。

 

とはいえ、それが簡単なようで結構難しくて、なかなかできないんだけど……。

 

人に合わせることや社会に擬態することが必要なときもあるけれど、1日の中のひとときだけでも、自分に素直に正直に向き合ったり楽しめる時間を持つことを続けていけたら、そんな日常を積み重ねていったら人生が彩られるかもしれないなと思ったりしました。

 

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ファミレスで4時間

ファミレスで4時間

 

友だちと語り合った。

 

会った目的は仕事の打ち合わせだったんだけど、

 

前から知り合いだったんだけど、

 

ひょんなことから、興味があることが似ていて、話が合うって気づいて、すごく深い話ができた。

 

いろんな思い出話から、普段考えていることとか、悩み癖とか、聞き上手で表情豊かな彼女の前で私は話し続けた。

彼女も大切な素敵な話を聞かせてくれた。

 

自分でも気づいていない自分を縛っているものに気づかせてもらって思わず泣いてしまったり、なんか10歳も20歳も若返ったみたいに、バカみたいにたくさんしゃべったけれど、未来が明るく感じたんだ。

 

気が合う人と話すって本当に楽しい。

 

歳を重ねることがしんどいと感じる時もあるけれど、歳を重ねたからこそ、見える景色が変わったり広がったりしているのかもしれない。

 

素敵な人に会う度に、もっと前に知り合えていればとか、もっと前からたくさん話していれば良かっただなんて思ってしまうけれど、今の私だから、今のその人とだから、心と心が繋がれたのだと思うんだ。

 

だから、その奇跡に感謝したい。

 

出会ってくれてありがとう。

 

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足元の小さな一歩

久しぶりに人前で話す機会、セミナーの一部に登壇させていただく機会をいただいた。

 

新年早々の予定だ。

 

学ばせてもらったとても大切だと思うことを、まずは自分が大切にしようと思って、いや、もしかしたら、勇気がなくて、それを言い訳にあまり話そうとしていかなったかもしれない……。

 

自分も共感した「大切なこと」を自分が透明なうつわになって人に伝えることはすごいこと。

 

その「大切なこと」を自分の経験した色つきのうつわに入れて「経験」というエッセンスを加えて伝えることも素敵なことかもしれない。

 

あるいは「大切なこと」を学んだ自分の独自の視点で、自分が表現したいことを表現したい方法で、伝わるか伝わらないかわからないけれど、思いきって表すことも素晴らしい。

 

どれが優れていて、どれがそうでないということではないし、どれかに絞ることもないのかもしれないのに、全てに対して自信がなくて、どれも中途半端に過ごしてきてしまった気がする。

 

何かに挑むとき、遥かかなたにそびえる頂上を見つめて足がすくんでしまうけれど、いただいた目の前の課題だけ、足元だけ見て、一歩前に出そう。

 

伝えたいことが伝わるように、今の自分ができることをしようと思う。

 

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おおざっぱ側だったり、細やか側だったり……

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詳しくはちょっと書けないのですが、とある活動のとある作業を担当していて、自分ではこれでいいのではないかと思って提出したものが複数回「ここを修正してください」と返ってきていました。

 

それが5回くらいだったかな?

正確には覚えていないけれど、やりとりがあったんです。

 

私はわりと「繊細」とか「丁寧」とか「細やか」って言ってもらえることがあってとても嬉しいのですが、人によっては「おおざっぱ」「適当」って言われます。

 

状況とか、モチベーションとか、取り組む作業のスキルのレベルとかいろいろあると思うのですが、わりと「細やか側」に最近ポジショニングされることが多かったのに、この度は「おおざっぱ側」となりました。

 

多分今回のやりとりの相手の方より「繊細さ」の解像度が私の方が相対的に粗かったのだなと思います。

 

「細やか側」のポジションのときは「これ気づかないんだな?」と不思議に思うこともあるけれど、「おおざっぱ側」としては「気づかなかったわ。よくこんなこと気づいたね」となるわけですよね。

 

そんなとき思ったのですが、やはり顔を見て直接やりとりするといいなと思ったワケです。

 

文字だけのやりとりとか、人を介してのやりとりとかだけだと、「指摘された」という思いが必要以上に膨らんでしまうこともあるかもなと。

 

顔を見て、どうして、こんなにこだわるのか、気になるのかってことが「言語」だったり「非言語」だったりを通してわかると、「細かいなー」と思うよりも「それだけ大切に思っているんだな。気がつかなくて申し訳なかったなむしろ」とすら思ったりします。

 

だから、そういったやりとりにも、人間としてのぬくもりを介することでこじれるものもこじれないで済むのかもしれないなと思ったりしました。

 

何度か「えーそんな〜細かーい」と思ってしまった事実は消せないけれど、お相手のプロ意識をむしろすごいなと今は思っています。

 

自分が「細やか側」のときに、相手の人が「細かーい」と思っているかもしれないなということがよくわかるいい経験でした。

 

もしこじれそうになったら、どうして自分がこんなにこだわっているのかを語る機会を持てたら理解してもらえるのかもしれないなと思ったりもしました。

 

いい勉強になったな😌

 

 

 

 

答えのない問いを考える大切さ

最近「答えのない問いを考えること」や「アート思考」といわれるような「既成概念や固定観念にとらわれず、自分の思考や感情から新たな課題を見つけるための思考」が大切と言われていますが、本当にその通りだなと思っています。

 

“答えのない時代”をこれからの子どもたちは生きていくんですよね。

 

それは希望でもあり、社会全体の価値観が革命的に変化する、パラダイムシフトというか、すごく大変なことのようにも思います。

 

昨日、息子の数学についてのつぶやきのようにFacebookに投稿をしたときに、友だちから教えてもらった動画があって、とっても素晴らしいなと感じました。

 

けれども、自分もずっと答えのある問いを解き続けてきたから、そこに愛着があって、ある意味の楽さがあったりするですよね。できることなら「答え」のある問いにしがみついていたい自分もいると感じてハッとしました。

 

過渡期だから、今の子どもも学校に行っていればある程度答えのある問いの解き方を身につけないといけないし、親はそれに慣れていたりするし……けれども時代は「答えのない時代」へと向かっているし……。

 

難しさを感じますが、動画の18歳の彼らの涙は美しかったです。

 

まさに、今、大人の私も「答えのない問い」に向き合っているのかもしれません。

 

よかったら聞いてみてください!

 

youtu.be

「ルール?展」に行ってきました。

Twitterで開催されているのを知って「行きたい!」と思ったのは数週間前ですが、「若者に大盛況」と知ってちょっと気後れしつつも、やっぱり気になったから「行ってしまえ!」と行って参りました。(ちなみに若者に広まったのは、TikTokの影響みたいです)

 

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確かにギャラリーは若者でいっぱいでした。

大学生くらいの方が多かったなぁ。カップルとか、女子2人組とか、男子1人とか。

でも、私みたいな中年の女性が1人で来ている姿もチラホラ見かけてホッとしていました。

 

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よくわからないまま行ったんですよね。だから「次はどんな展示だろう?」って、すごくドキドキしました。

 

最初のミッションというか体験型の課題みたいのをみて「ルールに縛られるってなんか窮屈だな」と感じました。(詳細は控えます)

 

で、いろんなルールについての展示を見るうちに「あれ? ルールって別に縛るだけじゃないかもしれないな。快適に過ごすための知恵だったり、あるいは、善良な人を守るものだったり、さっき、縛られるって思ったのだって、面白くするための装置かもしれないな」って思ったりしました!

 

帰ってきてから、面白い記事を見つけました。

 

withnews.jp

 

この記事によると、この展覧会のゴールは、「リテラシー(知識、啓蒙)からコンピテンシー(行動する力)へ」ということらしかったのですが、なかなかどうして「Z世代」の中には、いろいろな人がいて、必ずしも、積極的にルールを変えていこうという人たちではないようだというのです。

 

なるほど……。

 

この記事からも、展覧会からも、いろんな気づきをもらいました。

 

そして私なりに「あたりまえ」に思われることや「常識」と言われるものに疑問を持ったり、ふと感じる違和感を流さずにいること、あるいは決められた「ルール」がなんのためのルールなんだろう?本当に必要?とか考えていきたいものだなと思いました。

 

と、言いながら「ルールは守るもの」と思って長い間生きてきたので、わりとすぐに従ってしまうところあるんですよね。

だから、バランスが大事なんだろうなと感じます。

 

ということで、この記事も「ルール?展」もおすすめです。

 

 

 

 

 

中学生と小学生の夏休みの宿題のサポートの仕方の違い(多分どっちも失敗例)

最近というか、ここずっと、ブログを書くときは「久しぶりに書きます」という感じだ。

 

今日もふと書きたくなって書いているけれど、ひと月ぶりらしい。

 

中1の息子の夏休みが今日で終わる。

 

宿題は、さっきどうにか終わったらしく、今はオンラインで友だちとゲームをしている。

 

まもなく声変わりしそうな感じの、裏返ったり、かすれたりしている声で楽しそうに話している。

 

この夏休みで、息子に身長を越された。

 

手の大きさはかろうじて私の方が大きいけれど、うっすらと髭も生え、腕や足の毛も少し濃くなってきた。

 

 

 

小学生の時の夏休みとの違いは、宿題のサポート具合かもしれない。

 

夏休み前、学校の先生との面談があって

「何か保護者の方からありますか?」

と聞かれて

「親としてどうサポートしたらいいか、迷っています」

みたいに言ったら

「もう中学生ですから、基本的に本人が自分で計画して取り組む時期なので、保護者の方がやることは特にないでしょう」

と言われて、ハッとした。

 

先生が続けて

「かろうじて、提出物のチェックを一緒にするくらいですかね? まあそれも本来は本人がやるべきことですが……」

と言われたので、それくらいは声かけてもいいのかと少しホッとした「過保護な親」は私だ。

 

本当に自分で計画してやるのかな? と少し疑いながら、数日様子を見ていたけれど、計画を立てる気配が全くなく、結局

「計画は立てた方がいいのでは?」

とか

「追い込みがきかない、大きな宿題は本当に早めにやっておいた方がいいから」

とか

「サポートが必要なものは早めに言ってよ」

というようなことは、やはり言ってしまった。

 

実際には、家庭科の「朝食作りのレポート」はだいぶサポートして、美術の「エコについての絵画」も

「早く取り掛かってしまえ!」

と何度も言ってしまった。

 

ああ

「数学はためてしまうと辛いから毎日少しずつでもやった方がいいよ」

とも言ったっけ。

 

黙っていることは本当に大変だ……。

 

でも小学生の時と違うのは、息子がほとんど私の言うことを聞かないということだった。

 

だから、夏休みがあと9日間くらいの時に、息子は

「このままじゃ終わらない。過去の自分を殴りたい」

と言って落ち込んでいた。

どうやら「24時間テレビ」のエンディングを聞いて夏の終わりを感じたらしかった。

 

「今日が8月22日じゃん。あと9日もあるよ。今日気づけてよかったじゃないか」

と私は気休めに言いながら、あとどれくらい宿題が残っているのか聞いたら3分の1だと息子が言った。

 

「3分の2はできているんだね! すごいじゃないか!」

そう言って、なだめて寝かしたのに、翌日なかなか勉強を始めない息子に

「あと9日しかないんだよ!」

と少し苛立ちながら言ったら

「昨日は9日もあるって言ってたのに矛盾している!」

と反論された。

「確かに、矛盾しているね。でも往々にして、人間って矛盾しているものだよ」

と煙に巻き

「とにかく頑張ろう」

と声をかけてその場を離れた。

 

それでも時折

「終わらないかもしれない」

と嘆いていたから

「そういう時は、できてないことを書き出して可視化すると安心するから、やってみ」

とアドバイスし、9日間で何をするのか書き出したら、どうにか計画通り取り組めば終わると思ったみたいで、落ち着いたようだった。

 

そうこうして、どうにか今日、宿題を終えたようだった。

 

小学生の時は、本当はいけないけれど、自由研究をめちゃくちゃ手伝った。

 

なんとなく、そういうのを手伝うのは父親っぽいイメージがあるかもしれないけれど、私は工作が結構好きなので、割と関わった、本当はいけないけど……。

 

小1は箱で「パックマン」を作った。

迷路を作って、パックマンと、ゴーストの絵を描いた紙の後ろに磁石をつけて、手動で動かすゲームを作った。親が手伝ったのバレバレ。

 

小2は牛乳パックで電車の方向幕を作った。アイデアは息子だったけれど、これも、だいぶ手伝った。

 

小3は「豆電球でライトが光る救急車」と「鉄道のスタンプラリーの写真とかのアルバム」を作った。やっぱり半分くらい手伝ったかな……。

 

小4は牛乳パックで「電車」を作った。これは難しいところだけ手伝ったけれど、ほとんど息子がやったっけ。

 

小5は「ドラゴン」をペットボトルと新聞紙、半紙で作った。息子メインにやってもらって少しだけ手伝おうと思ったら、難しすぎて、心が折れてしまったので、だいぶ手伝って、色塗りだけは手を出さないことで気持ちを落ち着けた。ちょっと手伝いすぎて息子の達成感も奪ってしまったことを後悔している……。

 

小6は「ワニワニパニック」を作った。YouTubeで作り方を丁寧に教えてくれる動画があり、部品は私が作って、組み立ては息子がしたので、それなりに達成感はあったようだった!

 

と、まあ、手伝い過ぎました、ごめんなさい。

 

今年は、唯一のサポートが私があまり得意でない料理だったので、工作の方がいいのになとちょっと思ったり。

 

結局、全く声かけすらしない、任せるという状態には、どうしても心配する気持ちが出てきてしまいできなかったけれど、具体的な課題は見ないようにしていたので、よしとしようと思う。

 

でもな、やっぱり、数学の一学期の復習をもっとしてほしかったんだよな、本当は。

 

仕方ないな……。

 

親としては、まだまだ気にかかることがいっぱいだけど、できるだけ距離をとって見守るようにしていかねばなと思っている。