詳しくはちょっと書けないのですが、とある活動のとある作業を担当していて、自分ではこれでいいのではないかと思って提出したものが複数回「ここを修正してください」と返ってきていました。
それが5回くらいだったかな?
正確には覚えていないけれど、やりとりがあったんです。
私はわりと「繊細」とか「丁寧」とか「細やか」って言ってもらえることがあってとても嬉しいのですが、人によっては「おおざっぱ」「適当」って言われます。
状況とか、モチベーションとか、取り組む作業のスキルのレベルとかいろいろあると思うのですが、わりと「細やか側」に最近ポジショニングされることが多かったのに、この度は「おおざっぱ側」となりました。
多分今回のやりとりの相手の方より「繊細さ」の解像度が私の方が相対的に粗かったのだなと思います。
「細やか側」のポジションのときは「これ気づかないんだな?」と不思議に思うこともあるけれど、「おおざっぱ側」としては「気づかなかったわ。よくこんなこと気づいたね」となるわけですよね。
そんなとき思ったのですが、やはり顔を見て直接やりとりするといいなと思ったワケです。
文字だけのやりとりとか、人を介してのやりとりとかだけだと、「指摘された」という思いが必要以上に膨らんでしまうこともあるかもなと。
顔を見て、どうして、こんなにこだわるのか、気になるのかってことが「言語」だったり「非言語」だったりを通してわかると、「細かいなー」と思うよりも「それだけ大切に思っているんだな。気がつかなくて申し訳なかったなむしろ」とすら思ったりします。
だから、そういったやりとりにも、人間としてのぬくもりを介することでこじれるものもこじれないで済むのかもしれないなと思ったりしました。
何度か「えーそんな〜細かーい」と思ってしまった事実は消せないけれど、お相手のプロ意識をむしろすごいなと今は思っています。
自分が「細やか側」のときに、相手の人が「細かーい」と思っているかもしれないなということがよくわかるいい経験でした。
もしこじれそうになったら、どうして自分がこんなにこだわっているのかを語る機会を持てたら理解してもらえるのかもしれないなと思ったりもしました。
いい勉強になったな😌