涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

インナーチャイルドの言い分が聞こえた気がする

人をラベリングしてはいけないし、自分のこともラベリングしない方かいいのかもしれないけれど、ざっくりと、自分の中で、思考を整理する時に、「仮決め」みたいにラベリングを使う時がある。

 

そんな中、私は、HSPかなーとか、HSSかなーとか思うことがあるんだけど、最近HSEという概念を知って、その仮決めが混乱している。

 

混乱しつつ、仮に、HSPだろうが、HSSだろうが、はたまたHSEだったとしても、私という存在には変わりなく、この私として生きていくことにも変わりないのだから、今は決めつけずにいようと思い直した。

 

ちなみに、HSEという概念は比較的新しい概念のようで、「外交的」という意味だそうだ。

このHSEの概念が入ることによって、HSPは4つのタイプに分けられるようなのだ。

 

私はまだそのことに関して深く理解していないのでこれから知っていきたいと思うのだけど、それに関するブログや動画を見つけたので、リンクを貼っておく。

 

 


【あなたはどれ?】HSPの4つの分類・種類を徹底解説!簡単に判断できる!

 

https://ameblo.jp/kumikokkkn/entry-12595180028.html

 

https://ameblo.jp/inspire-shiori0429/entry-12525307866.html

 

 

で、話は変わるけれど、少しスピリチュアルな考えなんだけど、「スターシード 」という概念も知った。

 

もしかしたら、私はソレなのかな?とも思っている。

 

それについては、また今度書こうと思うが、HSPにしても、スターシード にしてもそう分類する条件というか、チェックリスト的なものに「生きづらさ」という共通項がある。

 

 

実は、この「生きづらさ」ということについて、私は該当しないとずっと思ってきた。

 

私は、生きづらさを感じて来なかったし、今も生きづらさを感じていない。

 

だからこそ、断定できず、「かもしれない」って域から出られないのだけれど……。

 

さらに、繊細かどうかについても、アーティストと呼ばれるような芸術肌の人に比べたら、大した感受性ではないし、現実の世界に順応だってしている、だから、この私がHSPのはずはない! そう思っていた。

 

だから、そのことによって、HSPの概念を6年以上も前に知っていたのに、自分がそうかもしれないとは思えなかった。

 

 

 

けれど、もしかしたら、私も繊細なのかもしれない、そう思って、周りの人にも聞いたら、「絶対繊細でしょ」と言われたのだ。

 

そうして、もしかしたらHSPの可能性あるのかな? って考え出したら、そうかもしれないと思ってきた、そんな経緯がある。

 

で、今度は「生きづらさ」だ。

私って生きづらいのか? ってことをまだ自覚したことがない。

 

周りに気を遣ってはいたけれど、どうにか、うまくやってきた自負がある。

 

だから、生きづらくないって思っていたけれど、この「周りに気を遣ってはいた」ということは、気を遣わなければ、生きて来られなかった、自分の気持ちを正直に出せずに生きてきたということが、「生きづらさ」だったとしたら、私は、「生きづらかった」のかもしれない、と思い始めた。

 

でも、どうなんだろう?

 

問題ない、と思い込んでいるのと、「生きづらい」という問題を抱えていたと思うことってどっちがいいんだろう?

 

「問題だと認識した時に、問題になる」と聞くこともあるので、特に困っていなければ、「生きづらい」という問題をあえて、テーブルに出さなくてもいいのかなとも思ったり。

 

でも、最近、いわゆるインナーチャイルドってやつだろうか?

小さい時の自分が、脳裏によく浮かぶ。

特に泣いていない。

特に笑ってもいない。

特に困っている感じもしない。

でも、何か言いたげなのだ。

なんだろうと、耳を済ませてみると、こんなことを言っていた。

 

「どうしたら、みんながいい気分になるか、それを考えて行動しているけれど、それはうまくいっているけれど、本当は、私にだって思いはあるんだ。だけど、それを出してしまうと、せっかく収まっている場が乱れちゃうかもしれないから、我慢しているの。いい子だね! 素晴らしいね! って言ってもらうと、嬉しいけれど、もっと頑張らないと、もっとちゃんとしないとダメなんだなって思っちゃうの。それがちょっとつらいんだ。でもね、わがままを言ってみんなに嫌われることがとても怖い。それなら、自分が我慢することによって、その場が収まるんだったら、その方が嬉しい。これも本当の気持ち。

だけど、だけどね、知っておいてもらいたいんだ。平気でいるわけではないってことを。私は我慢していたの。それだけを知ってもらったら私は嬉しい」

 

そうか!

そうなのかもしれない。

 

嫌われるのが怖かった。

ダメだと言われていることをやって叱られるのも嫌だった。

だから、正しいと言われることをやるしかなかったんだよね。

そうしているうちに、自分がどうしたいのか? 何を本当はしたいのか? わからなくなったんだね。

頑張ったね。

頑張ったね。

 

生きづらい……そう認めてしまうことすら、怖かったのかもしれない。

必死で作り上げたものをなかったことにしちゃう気がして。

私は頑張ったけど、困ってはいなかった、平気だったって思いたかったのかもしれないや。

うまくいっていたって思いたかったのかもしれない。

 

人は思い通りには生きられないし、多かれ少なかれ、あーすればよかった、こーすればよかったってこともあると思う。

 

だからって、過去に戻ることはできないし、直接それをやり直すことはできないけれど、過去の自分の思いに寄り添って、共感し、癒すことはできるのかもしれない。

 

ここ数日ずっとモヤモヤしていて、体調もあまり優れなかったけれど、今、こうして、小さい時の自分の声を擬似的にとは言え聞けたことで、少し楽になった。

 

今、現在、そこそこ頑張っているけれど、過去の、特に、子供の頃の自分ほど頑張れていない。

 

それが、ちょっと後ろめたくもあるけれど、頑張れていなくても、完璧ではなくても、私の周りには愛する人や愛してくれる人がたくさんいて、弱っていたら、励ましてくれたり、それでいいよ、と言ってくれたりするんだ。

 

だから、もしも小さい時の自分に何か言ってあげられるとしたら、「いつも頑張っていなくても大丈夫だよ。それでも全員には嫌われないよ。完璧でなくても愛されるから大丈夫だよ」っていうことなのかも。

 

そう言おうって思っている私も、未だに、頑張っていないことが不安なんだ。

 

でも、大丈夫、それでも、人を愛せるし、愛されるってことを認めて、自分のペースで歩んでいけたらいいなって思う。