ありのままの自分を受け入れる……。
そのことの意味が少しずつわかってきて、自分のあまり好きでない部分にも「○」をつけようとしてる。
「○」がつけられない時には、せめて「ああ、ここが嫌だと思っているんだな、私」って認めるようにしている。
できる時とできない時があるものの、なんとなく、そうやって自分の本音に寄り添っていると、心が穏やかになってくる気がする。
いい感じだ。
でも……実は、息子に関することに対してはなかなかそれができない。
多様性とか、みんな違ってみんないいとか、ありのままでOKって、いろいろな学びで習って、本当にその通りって思っているのに。
心配するより信頼が大切。
それもわかる。本当にそうだと思う。
だけど、だけど、つい心配しちゃうし、人と比べてしまうんだ。
息子の年齢だったら、こんなこともできるはず、なのにできていないな、とか。
もっと、外で遊んでくれたらいいのに、もっと友達がいたらいいのに、もっと自分から勉強してくれたらいいのに、もっと、もっと……って……。
自分が鬼にでもなったかのように思う。
ありのままの息子にOK出したいのに、出せていないじゃないか、ひどい親だなと思う。
自分のエゴが悲しい。
息子の幸せを願っているようで、自分の親としての未熟さが露呈されることを恐れる気持ちの方が強かったりするんだ。
本当は、こうしてほしい、ああしてほしい。
こうだったらいいのに、ああだったらいいのに。
そう思う一方で、その気持ちを息子に伝えて傷つけてしまうことは避けたいと思っている。
でも、おそらく表情である程度伝わっているのだろうな。
心から、息子を信頼し、ありのままでいいよって言えるようになりたい。
けれども、現状は、そうではない。
心配でしかたない。
信頼しているのか?と聞かれると、自信がない。
だから、せめて今は「もっと、外で遊んでくれたらいいのに、もっと友達がいたらいいのに、もっと自分から勉強してくれたらいいのにって思っちゃっているよね。思っちゃうことあるよね」
って自分に言おう。
こんな好ましくないことを思っちゃうこともあるねって認めよう。
自分をゆるせたら、息子や周りの人のこともゆるせるかな?。
ゆるんだら、足りないことや欠けているところではなく、いいところも見えてくるよね、きっと。
ありのままにOKを出すというのは、全てが満足で素晴らしいと感じられるわけじゃなく、こんなものだ、とあきらめることも含まれているのかもしれない。
自分のいたらなさをある意味あきらめてみてもいいかな?
本当は、在りたい自分を完全にはあきらめたくないけれど、そうでない自分も責めすぎず、ゆるもう。
もしかすると、親の理想がわかって、それに近づける努力をしてきた小さい時の自分が、怒っているのかもしれない。
もっと努力しなさいよって。
でもそれは、息子に強要できないよ、だって、違う人格だから。
それに、小さい時の自分が怒っているということは、本当はそうしたくなかったからなんじゃないかな?
私が今することは、息子ではなく、小さい時の自分をねぎらうことなのかもしれない。
「よくがんばったね」って。
でも、がんばってよかったと思っているから、息子にもがんばってほしいのかもしれないな。
だけど、違う人格なんだよね。
押しつけるのはよくないね。
結論は出ない。
というか、どうしたらいいのかは、わかっている。
でもそれができない時、自分にどう折り合いをつけるのか、それが問題なんだよね。
そのヒントは、やっぱり、あきらめるかな?
結論は出ないけど、今の自分に○はつけられないけれど、「私は今そう思っているのだな」って認めようとは思う。