ただ眺めるのではなくしっかりと見ることで、アート作品にはようやく出逢えるのかもしれない〜ふみサロエッセイ〜
会員制の文章執筆サロン「ふみサロ」の合評会に今月も参加しました。
ここでは課題本を読んで、エッセイを書き、月に一回会員が集まって合評会を行います。
今月の課題本は『怖い絵 泣く女篇』中野京子・著 角川文庫でした。
こちらが、私が書いたエッセイです。
読んでいただけたら嬉しいです。
ただ眺めるのではなくしっかりと見ることで、アート作品にはようやく出逢えるのかもしれない
約半年くらい前に知った画家の杉田陽平さんの影響で、今アートに興味を持っている。
しかし、応援しながら心が落ち着かないのは「私はアートのことをよくわかっていない」からだと思う。
「アートは身近なもので、感じるもの。正解はない、自由だ」という彼の言葉を聞いて、少しホッとしながらいろいろな作品を見つめると、確かに感じるものはある。
なかなか買えないと言われている彼の作品が、何気なく見たサイトで販売していたのを見つけたのは、今年のお正月のことだった。
本当に素敵だと感じ、惹きつけられるように購入した。左半分が写実で右半分が抽象的な蝶の絵だ。
誰かが良いと言ったからという理由じゃなくて、心から「これは好き」と言えるもの。まさにそれだった。
そんな作品に出逢えただけでも幸運で、きっともうそれで充分なんだろうけれど、他の人が良いと言うものの良さがわからないことも多く、それが少し残念だ。
我ながら本当に欲張りだと思うが、できるだけたくさんの「良さ」をわかりたい。
どうにかしてわかるようになれないかと思っていた矢先に「怖い絵 泣く女篇」を読んだ。
そしてわかったことがある。
それは、私が作品をしっかり見きれていないということだ。
各説明の前にその作品が載っていて確かに見ていたはずだった。
それなのに、本文の「こういう人がいる」「ああいう物がある」という説明を読んで、そのような絵だったかしらと疑問に思い慌ててページを戻ると、確かにそのようになっていた。
本当に漠然と眺めているのだ。
説明をされて確かにと思い、その時代背景や描かれた人や物の描写の説明を聞いてゾワゾワした。「怖い」と感じながら、とても惹きつけられた。
けれども、クイズを解く前に答えを見てしまったような後ろめたさもあった。
感じることも大切にしたい。
だけど、わかりたい欲も満たしたい。
だったら、説明してもらう前に、作品をよく見て気づいたことや感じたことを、まずは自分で認識することがきっと大切なんだ。
直感で好きと思える作品は、もしかしたらそれが自然にできているのかもしれない。
けれども、もしも一目惚れできなくても、しっかりと見ることで、好きとか嫌いとか、わかるとかわからないとか含めて、その作品とようやく出逢えるような気がした。