涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

息子はバタフライを泳げるようになるまでスイミングスクールを続けるだろうか?

先週の水曜日に平泳ぎに合格したあと、初めてのスイミングスクールの練習日が昨日だった。

 

平泳ぎのあとは、バタフライを習うことになっている。

 

小4の息子が通う予定の公立の中学校では1年生で臨海学校に行くことになっていて、そこで遠泳(平泳ぎ)があるのだと数年前に聞いた。

夏休みのため自由参加ではあるけれど、ほとんどの子が参加すると聞いたので、何年も先のことではあるけれど、私は不安を感じたのだ。

 

だから「クロールまで泳げるように」という目標から急遽「平泳ぎまで泳げるように」へ変更したという経緯がある。

 

運動があまり得意ではなく、初めての場所や、初めてのことに対して不安を感じやすい息子だからこそ、スクールに通い時間をかけて練習しておいた方がきっといいだろうという親心から習わせ始めたのだけれど、そのスクールに慣れることにとても時間がかかった。

今思えば息子に相当ストレスをかけてしまったと思う。

 

水泳を習わせたのは、「小学校6年間で、どんな形でもいいから25メートル泳げるようにならないといけない」と言われたからであり、平泳ぎが泳げるまでやめることをよしとしなかったのは、「中学校で遠泳があるから」という理由だった。

 

だからその意味では、「バタフライ」は泳げるようにならなくてもいいかな、とは思っている。

ただ、本当に親の欲を言えば、「バタフライ」の後に、すでに一応泳げるようになっているはずの4泳法の泳ぎ方を整えるというところまで行ってくれたらなとは思っているけれど、さすがにそれは私のエゴなので、どうしても嫌ならもうやめてもいいと思ってはいる。

 

そう考えると、もしも、小学校6年間で、別に25メートル泳げなくてもいいとか、中学校で遠泳がない、という状態だったら、水泳を習わせていなかった気もする。

 

やはり、どうしても「一般的」なことに合わせようとしているところが自分にはある。

 

本当に我が子が選ぶ道が一般的なものでない時にも、やりたいことを応援するということは、親として「この子はこの子でいいんだ」と心から思い信頼し、覚悟をすることなんだと、最近、親しくなった仲間たちから学んだ。

 

それが、今自分ができているかと言われたら、自信がない。

 

だけど、昨日、初めての「バタフライ」の練習が辛かったようで、「もう辞めたい」と息子が言った時に、「そうか」と普通に言えた。

でもそれは、私が変化したのではない。

「バタフライ」が泳げなくてもいいやと思っているのは事実だけれど、その考え方は自分独自のものではなく、私の周りの多数の保護者がそう思っていると知っているからだ。

どこまでも、長いものに巻かれている自分を感じる。

 

しかし、「でもな、やっぱりバタフライまでは泳げるようになりたい気もするな」と息子が言い出したのだ。

「それもいいよね」

びっくりしながらもそう言ってその場は終わったのだけれど、これは、息子が憧れているスポーツ万能の同級生が「バタフライをできるようになってから水泳をやめた」と昨日聞いたばかりだったので、サッカーとか足の速さでは追いつけないけれど、もしもバタフライを泳げるようになったらその同級生と同じになれるという憧れからかもしれないと思ったからのようだった。

 

多分来週も「やめたい」とも「続けようかな」とも言うと思う。

 

私は「ここまでよく頑張ったから、やめてもいいと思うけれど、運動は何かしらした方がいいと思う」ということは言うと思う。

 

「いいよ。なんでも好きなことをやればいいよ」

って心のそこから言えるようになりたいけれど、もう少し時間がかかるかもしれない……。