希望の大学に入れなくても、続いている人生について
今週のお題「受験」
私の「受験」体験は、高校受験と大学受験だった。
高校受験は、高望みの国立の高校には、予想通り落ちたけれど、本命と併願は両方とも運良く受かって、めでたく本命に行けたからよかった。
しかし、大学受験は、正直言って、がっかりするような結果だった。
もう少し、世界史をしっかり勉強しておけば……と思ったし、世界史じゃなくて日本史を選んでおけば……とも思った。
世界史なんてなければよかったのに!
そんな風に思ったりもした。
結局、世界史に足を引っ張られる形で、私の、大学受験は終わって、10校受けて、2校にしか受からなかった。
受かったのは、いわゆる滑り止めの2校で、ひとつは、短大で私の希望していた心理学が学べない英語科だった。
ああ。
同じ高校の友だちは、もちろん現役で合格した人もいたけれど、大方、浪人を選択していた。
しかし、私は「現役で合格」を条件に、高3で予備校に行かせてもらっていたので、どうしても、受かったどちらかに行かなければならなかった。
しかもその決断をする時、両親は、遠くにいた。
父の実家の九州にいたのだ。
父の養母とその母が立て続けに亡くなり、葬式や様々な手続きでひと月ほど、家を留守にしていたのだ。
だから、両親との話し合いというか、連絡は、短い電話だけで、将来の重要な決断をひとりでしなければならなかったのだ。
もし、入学するならお金を払わなければならなかった日、母は、
「どうしても、浪人したければ、お金はどうにかするからしてもいいよ」
そう言った。
気持ちは揺れたけれど、一年後、今年受かった学校すら落ちてしまうかもしれないと思ったら怖くなった。
結局、私は、短大に行くことにした。
心理学を学べる滑り止めの大学より、英語科の短大の方が、少しだけ偏差値が高く、少しだけ有名だったからだった。
迷い過ぎると人は、客観的な数字を頼りにしてしまうものかもしれない。
本当にこれでよかったのかな?
楽な道を選んでしまったかな?
学びたいものを学べない選択なんてやはり間違いなんじゃないかな?
決めた直後ばかりでなく、事あるごとに、その時の選択に疑いを持った。
いいことがあれば、少しホッとしたけど、嫌なことがあれば、やはり間違えたんだと感じた。
だけど、短大を選んだおかげで、就職はスムーズで、氷河期を避け、都市銀行に就職できた。
そこで、楽しかったこともあるし、大変なこともあった。
結局、あれから、30年弱経った今も、あの時の選択が正しかったのかどうかはわからない。
ああ、そうか。
どんな選択をしても、その後の出来事を、どう捉えるかによって、気持ちは変わるんだ。
大学受験より先にも、就職、結婚、退職などなど、大きなことから小さなことまで、選択は続いている。
どんな選択をしても、その後の出来事を、どう捉えるかによって、気持ちは変わるんだとしたら、じゃあ、何を選択したって同じか? と言えば、それも違う気がする。
一生懸命考えて選択し、決めた決断の結果生じたことは、受け止める。
それの繰り返しなんだろうな。
受け止める時、笑顔の時もあれば、涙を流す時もあるだろう。
笑顔が多い方がいいけれど、涙だって、決して無駄じゃない。
毎年受験があって、たくさんの人が人生の岐路に立たされる。
納得行く結果を出せたとしても、そうでなくても、人生は続いて行くから、その時の感情を味わって、ぜひ、その経験を大切に育ててほしいと、45歳の私は思うのである。