涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

今日という、かけがえない一日を検証してみた

今日という一日が、かけがえのない一日だということはわかっている。

 

だからこそ、大切に生きたい、過ごしたいのに、もったいない時間の使い方をしている気がしてならない。

 

けれども、いったい、どんな風に過ごすことが、最適、あるいは、正解なのだろう。

 

正解なんてないってことはわかっているけれど、例えば、お弁当箱に彩りも、栄養も、美味しさも満点なお弁当を詰め、さらに、それをお昼に開けて本当に美味しかった時みたいな充実感を、今日という一日に詰め込みたいと思っているのだ。

 

しかし、特別な一日をつなぎ合わせたら、それは特別でもなんでもない、いつもの一日になってしまう。

 

それに、毎日特別感を並べ立てていたら、すごく疲れるし、ちょっと気を抜いてしまっただけで特別感を出せなかった一日は、必要以上に色褪せて見えるのかもしれない。

 

それに、そもそも、誰に対してそんなに特別感をアピールしているのだろうかと疑問すら感じてくる。

 

いったい誰のための、なんのための一日なのだろう。

 

今日という一日、いや、まだ終わっていないので、今日の3分の2を思い起こしてみよう。

 

朝起きて、洗濯をし、朝食を作り、ゴミ出しをしつつ、息子を小学校に送り出した。

少し、スマホを見てしまい、「あ、なんか今日はだらけている。気を引き締めねば」と思いつつ、コーヒーを飲んで、洗濯物を干し、台所の食器を洗っていたら、旦那のリモートワークが始まった。

 

「買い物に行ってこよう。サラダ油とお米が切れているから、今日はリュックで行こう」

 

散歩がてら近所のスーパーマーケットへ行き、足りない日用品と食材をリュックいっぱいに買って、重たいなーと思いながら帰ってきた。

 

ちょっと椅子に座ってお茶を飲み、そろそろと思って昼食を作り、YouTubeを見ながら食べていたら、急にだるくなってきた。暑さのせいかもしれない。

 

熱を測ってみても、むしろ普段より低くて、ホッとしつつも、何故こんなにだるいのだろうと不思議に思った。

 

ああ、今日こそ、台所のゴミ箱を洗い、流し台の下の鍋などを洗おうと思っていたのに、と思いつつ、リラクゼーション効果のある音楽を聞いていたら、いつの間にかに眠ってしまった。

 

そのあと、友人から、今晩ズームでおしゃべりしようとお誘いを受け、このダルさが夜まで続いたら参加できるか不安だったけれど、おしゃべりをしたら元気になりそうな予感がしてOKした。

 

少し、最近の悩みをメッセンジャーで聞いてもらったら、元気が出てきた。

 

「もしかしたらゴミ箱を洗えるかもしれない!」

そう思って、風呂場でゴミ箱を洗い、ついでに風呂場も洗ったらなんだかスッキリした。

 

こうして書き出してみると、何もしていないわけでもなく、意味が全くないわけでもない。

もしも、ずっと寝ていたとしても、それにもきっと意味があり、「横になりたいから横になっていたのだ」という自分の気持ちに沿ったことの実行したということなのかもしれない。そもそも、「意味」なんてがなくてもいいのかもしれないし。

 

なんだかんだと、毎日の充実感のハードルを自分でぐんと高く上げて、それを達成できなかったと落ち込んでいるのは、独り相撲なのかもしれないと思った。

 

特別感のある日々を並べ立てたい願望もあるけれど、それと同時に、それが叶ってしまったら疲れ果ててしまうのではないかという不安や恐れもある。

 

だったら、時に、特別感を味わいながら、あとはそれなりの日常でもいいのかもしれない。

 

それなりの日常だって、当たり前ではなく、だた、買い物ができること、散歩ができることだって、本当にすごいことだって、このコロナ禍でわかったはずなのに、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのだなと苦笑いするしかない。

 

今日もこうして無事過ごせた。ありがたいことだ。

 

昼寝中、開けた窓からそよそよと風が吹いてきて、窓の外には風に揺れる木々が見え、その間から日の光を見た時、ああ、気持ちがいいなと感じたではないか。

 

その瞬間を感じられた今日という日は、もしかすると、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ特別感いっぱいの日と同じくらい、すごい一日だったのかもしれないと思ったら、なんだかちょっと嬉しくなった。