涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

まつり縫い

秋になったので、そろそろ息子にも長ズボンが必要と思って、去年まで履いていたのは、まだ履けるかな? と、試してみたのだけれど、もうきつくて履けなかった。

 

同じ形のワンサイズ大きいのを買えばいいかと思ったら、お腹周りの肉付きがよくなっていて、それも小さく、実際の身長よりもだいぶ大きなサイズを買うことになった。

 

よって、スボンの丈が長すぎる……。

むむむ……。

 

私は、裁縫が得意ではないので、アイロンでできる裾上げテープを百円均一のお店で買ってみた。

しかし、なるべく、長さを切らずに仮止めし、身長が伸びるとともに、丈も長くしていきたかったので、裾上げテープでは、難しく感じた。

 

うむー、あーやるしかないか!

あー、あれをー!

そう、裾上げ。

 

私の母は、裁縫が得意で、若い頃、服飾のデザイン学校に通っていたそうだ。

私が、小さい時は、たくさん洋服や小物も縫ってくれた。

買ったみたいに、いや、既製品よりも丁寧で、とても上手だった。

 

裁縫が得意な母からすると、私のおぼつかない手元は、心配だったのだろう。

私の手元を覗き込むように、大丈夫かな? という目でみられると、

「じゃあ、やってくれる?」

って、ついお願いしてしまい、私の腕を磨く機会もあまりなかった。

 

結婚してからも、毎回ではないけれど、難しいことはお願いしてしまっていた。

あまちゃんである。

 

しかし、今は、母は、目が悪くなってしまって、もう針仕事は、難しいらしい。

 

遊びに来た時に頼むわけにもいかず、しぶしぶ、自分で、まつり縫いすることにした。

 

まあ、学校の家庭科でも習ったし、できなくはない。

しかし、素晴らしい出来ではない。

 

まあ、いいか、止まっていれば。

 

幸い、息子は、そんなに出来について、うるさくはない。

走っている時に、裾が長くならなければいいと思っていると思う。

 

不器用だけど、頑張ったことがまずは大事かな。

 

ズボン一本はどうにかできて、息子も、まあ、合格点をくれた。

洗い替えのもう一本としないといけない。

 

あー、ちょっと、憂鬱。

だけど、母として、やろう。

まつり縫いを。

 

好きな音楽でも聴きながら。

息子との読書会! 『気持ちを「言葉にできる」魔法のノート』①

今日は、3連休の2日目。

夕方には、私は地元のお祭りの作品展の手伝いがあるから、午後から、旦那と息子が行った鉄道フェスタには行けなかったのだけれど、それは、午前中に起こった。

 

午後からのお出かけの前に、今日の分の勉強をしておいてほしくて、午前中は家事をしながら、息子の勉強に付き合った。

 

国語とか、Androidタブレッドを使った勉強は一人でやってもらったけれど、音読や、ちょっと苦手意識のある割り算の筆算には付き合った。

 

集中が切れて席を立ったりしたけれど、1時間30分くらいで、どうにかやり終え、お昼ご飯を調達して帰ってくる旦那の帰宅予定時間まで、あと1時間という状態になった。

 

「どうする? あと1時間は、ユウの自由時間だけれど、ゲームやる? それとも、あの本を一緒に読む?」

 

あの本とは、『気持ちを「言葉にできる」魔法のノート』梅田悟司・著 日本経済新聞出版社 のことだ。

 

気持ちを「言葉にできる」魔法のノート

気持ちを「言葉にできる」魔法のノート

 

 

この本は『「言葉にできる」は武器になる。』梅田悟司・著 日本経済新聞出版社の実践編でもある。

同書を以前買って読んでとても勉強になったので、その実践編でもあり、噛み砕いて書いてある『気持ちを「言葉にできる」魔法のノート』も購入していた。

それは、自分のためでもあり、もしかしたら、息子と一緒に「言葉」について学べるかもしれないという思いもあった。

 

購入してすぐ

「この本面白そうだから、いつか一緒に読もうよ」

と本の装丁を見せ、中身もパラパラめくって息子に伝えていたけれど、3ヶ月くらい、積読したままだった。

 

昨日、積読本が、増えて本箱から溢れていたのを、息子に見つかって

「ねえ、なんで買ったのに読まないの?」

と聞かれて

「もう少ししたら、読むよ」

と、誤魔化していたら

「あ! この本、一緒に読もうって言ってたよね?」

ってあの本を手にしていた。

「そうだね」

と言ったものの、昨日は勉強をしてほしかったから、すぐには、読まなかった。

で、その翌日の今日である。

 

「どうする? あと1時間は、ユウの自由時間だけれど、ゲームやる? それとも、あの本を一緒に読む?」

と聞きながら、おそらく、ゲームをするだろうと思っていた。

しかし、本を一緒に読むという!

 

「あ、そう! わかった! いいよ! 持っておいで!」

本人がやる気なら、私もやぶさかではない。

 

急遽、息子と私の読書会が始まった。

 

本書は、仮名はふってあるものの、対象は、高学年から中学生くらいなのかな? とも思った。

一人で理解しながら読むのは、小4の息子にはちょっと難しいかなと思ったので、私が音読しながら、時々、理解を確認し、読み進めた。

 

紙と鉛筆を渡しておいたら、本書の登場キャラクターの“コトバード”の絵を書き写し始めてしまった。

あちゃー、ちゃんと聞いてるかな?

本当は、絵なんて書かないで聞き入ってほしかったけれど、せっかく上機嫌に絵を書いているから、別に学校の勉強ではないし、まあいいかと目を瞑った。

 

結局、今日は、3分の1ほど読み進めて、1時間が経ってしまった。

 

それでも、大事なことを、楽しみながら、理解することができたようでよかった。

 

今日、息子と学んだのは、以下のことだ。

①言葉には、「外に向かう言葉」と「内なる言葉」がある。

②外に向かう言葉は、普段使っている、話したり、書いたりする言葉。

③内なる言葉は、何かを感じたり、考えたりする時に頭に浮かぶ言葉。

④2つの言葉はつながっていて、外に向かう言葉の前に、内なる言葉を育てていく必要がある。 

本書より引用

 

これから、いよいよ、“思いを育てて、言葉にする”練習をしていくことになる。

 

「続きは、近々、またやろう!」

そう約束したけれど、お互いの都合やモチベーションによって、いつできるかは未定だ。

 

それでも、今日、学校の勉強以外のことを、一緒に学べて、とても楽しかった。

 

もしも、息子が、「言葉」に興味を持って、大切に扱ってくれたら、尚、嬉しい。

 

 

「言葉にできる」は武器になる。

「言葉にできる」は武器になる。

 

 

 

 

 

 

「このままでいいのか?」と考える癖、また、出ましたが……

私の癖のひとつは、なかなか厄介なものだったりする。

 

いろいろと新しいことに挑戦し、うまくいったり、そうでなかったりしながら、試行錯誤して、どうにか、軌道に乗ってくると、「このままでいいのか?」という思いがむくむくと湧き上がる。

 

軌道に乗るといっても、全て完璧になんてなっていないけれど、いくつかの問題を抱えながらも、なんとなくルーチンワークになってきた頃にそう思うことが多い。

 

「万年、モラトリアム」ともいうべき、厄介な癖。

厄介と言いながら、そういう自分のことを嫌いではないのだけれど……。

 

しかし、一人で悶々としているだけならいいかもしれないけれど、必ずと言っていいほど、旦那を巻き込む。

 

「あのさ……」

そう話を始めると、あーまたその時期が来たという目で見られる。

 

結婚してよかったというか、ああ、いい人と結婚したなと思うのは、そうした、ある意味、不毛とも言える、しかし、私にとっては大事な「モラトリアム問答」に真剣に向き合ってくれるからだ。

 

今日も、例によって、そんな話になった。

仕事にしても、PTAにしても、嫌というわけではないけれど、自分軸でやっているというよりは、「役に立ちたい」「いい人だと思われたい」というような気持ちが強く、目の前のことをどうにかこなしているという感じなのだ。

 

自分軸で、ワクワクしながら、さらに、人の役に立つ行動をする仲間が周りに多く、そうした報告を聞くたびに、素晴らしいと思いつつ、焦りもでる。

 

大分前から、何かやりたい! 成し遂げたい! と思って、いろいろ資格をとったり、勉強したりしながらも、直接それを使って、活躍できていない自分にもがっかりしている。

 

ところが、今日、旦那に言われて、「え?」って思ったことがあった。

目から鱗が落ちたのだ。

 

今まで、縦軸でいろいろ学んで来たと思うけれど、君は、横軸で考えた方が、ご機嫌に過ごせるのではないか? ということだった。

 

最初、なんのことかよくわからなかったけれど、「ほめ達認定講師」「子育てハッピーアドバイザー」「社会保険労務士」「AFP」などの資格を持っていながら、その専門性を活かした活動をすることに及び腰なのは、何かの専門家になって話すことに興味がないか、あるいは、向いていないからのではないか? そうかと言って、それらの勉強が無駄というわけではなくて、君がハッピーでいられる状態というのは、目の前にいる人、特に、自分よりも若い人が、何か悩んでいた時に、「こういう考え方もあるみたいだよ」とか、「あなたには、こうしたいいところがあるから、これが向いているかもしれない」とか、知識とか知見を、必要な人が必要な時に、伝えて、相手に喜ばれることなんじゃないか? と言われたのだ。

 

あ! 確かに!

 

さらに、学ぶことが好きなのは、そうした「知っていること」「人に伝えたら役に立ちそうなこと」を増やすためと、自分自身が、学んで「なるほど!」とアハ体験をしたいからなんじゃないかな? とも言われ、図星で恥ずかしくなるほど、合点がいった。

 

そう考えてみると、確かに、私は、自分よりも若い人たちと話をすることが好きだ。

自分のたまたま知っていることで、その人が知ったら、役に立つかもしれないと思うことを伝えることも、それが、当たっていることも、大好きだ。

自分が、与えるばかりではなく、彼女たちと話をしていると、力をもらえ、学ばせてもらえ、すごく元気がでる!

 

え? じゃあ、今の状態が、結構、いい感じってこと?

 

何者かになりたくて、何か、バーンと人に堂々と言えるような職業というか、肩書きというか、そうしたものが、実は欲しかったけれど、そうした、見上げるような、相当頑張らないと手に入らない、しかも、どう頑張ったらいいのかもわからないようなものになろうとするよりも、目の前のご機嫌に生きられる状態に感謝するべきなのではないか? と、思った。

 

でも、そこは、私のことだから、まだ、模索したい。

 

今すぐ、は、やるべきことがありすぎて、難しいかもしれないけれど、その横軸でのご機嫌をずっと手に入れ続けられる、他者も自分も、ウィンウィンな仕組みを考えたいな。

あ、もちろん、私専用のオーダーメイドの。

 

そうはいっても、今回、旦那が私の特性に気がついてくれたおかげで、有意義な発見があった。

 

ありのままに近い状態でいられる空間、そして、それを受け止め、アドバイスしてくれる人は本当にありがたい。

 

何か、目に見える成果がないことに、焦ってしまうけれど、もしかすると、「出会えてよかった!」と思える人に出会えたり、ご機嫌に過ごせる時間を長く持てている状態こそ、生まれてきた意味であり、感謝し、誇りに思うべき尊いことなのかもしれない。

 

 

年の離れた友だち

大人になると、年齢関係なく、友だちになることが増える。

 

ママ友は、「同じ年の子ども」がきっかけで知り合うけど、本人同士は、5歳とか10歳とか平気で違うし、その違いがまた面白い。

 

ママ友という括りで、さよならする場合もあれば、本当の友だちになれる場合もあるから、人の繋がりに、きっかけや年齢はあんまり関係ない気もする。

 

今日は、年の離れた友だちと、ランチした。

その差はなんと、25歳。

わ。書いてみて、さらに、驚いた。

 

彼女は、年下だけど、もし彼女が、私と同じ年になったら、私は71歳か! わー!

 

娘と言ってもおかしくないほど世代が違うのに、話していると楽しい。

 

出会いのきっかけは、子どもではなく、仕事だった。

 

若いのに、いろいろよく気づいてくれる尊敬できる人。

 

いろいろ悩んだ挙句、同じ職場を辞めた彼女の、新しい仕事をすることになった門出を祝った。

 

私が、もし仮に、年の功で、できることがあれば、私が気づいた彼女の素晴らしい点を、伝えることだと思い、伝えた。

 

そのあと

 

「もしかしたら、もっと何かできたのではないか、とも思ったりもします」

 

そう言った彼女が、美しかった。

 

「そう思える気持ちが、素晴らしいよ」

 

21歳。

羨ましいくらい、輝く年齢だ。

 

私が、彼女と同じ年の時はこんなにしっかりしていたかな。

 

あんまり思い出せないが、多分、目の前のタスクと向き合い、必死ではあったはずだ。

 

そうだ!

できることは、今を生きること。

 

ずっと、続くご縁かは、お互いの気持ちや環境次第だけど、出会えたこと、語り合えたことに感謝して、ご活躍と幸運を祈りたい!

 

 

不安定な天気の中、運動会が実施されたけれど……

えっと、今日、運動会、開催されました。

しかしながら、小雨、いや、雨降りしきる中、進められたのですが、残念ながら、あと3分の1を残して、中断となりました。

したがって、10/2火曜日に、残りをやることになってしまったのです。

 

正直言えば、残念です。

スッキリしないし、火曜日は、また、受付やら、来賓のお茶出しやら手伝わないといけないかもしれないし。

会社にも、お休みをいただけるように、他の日との調整をしないといけないしで、あー、どうして、もう少し、もう少しだけ、雨が降るのが遅くならなかったのだろうか? と嘆きたい気分です。

 

あー残念!!!

 

でも、

でもですよ、

最悪ではないんです。

確かに。

 

なぜなら、今日、お弁当を作らないですんだのは、天気が悪いおかげなんです。

午後から雨が降る予報だから、もしかしたら、中止になるかもしれなし、実施できそうだとしても午前中に全て終わらそうと、昨日の早い時間に先生たちが考えてくれて、お弁当なしにしてくれたんです。

 

それに、近くに住む両親が、運動会を見にきてくれたのですが、もしも、朝から雨が降っていて、全てが10/2火曜日になってしまったら、用事があるため見に来ることができなかったから、今日、3分の2、しかも、ぜひ見て欲しかった、短距離走とダンスを見てもらうことができたのは、本当に良かったです!

 

それから、息子が、一昨日あたりから、少し風邪気味だったのですが、今朝、熱もなく運動会に参加できたことや、足の速くない息子が、タイム順で分けられた走り順で走り、4人中、初めて2位になれたこと、雨の中、先生も児童も、一生懸命取り組んでいた姿が美しかったことも、嬉しい出来事でした。

 

また、おそらく、10/1都民の日に、どうにか、息子に私の実家に行って過ごしてもらい、仕事に行くことで、10/2に行われる運動会の続きも、見られる目処がついたことも、感謝すべきことです。

 

それぞれは、当たり前ではなく、ありがたいことなのですよね。

 

実は、それ以外にも、小さなモヤモヤがあるのですが、自分の感情を認めた上で、冷静に考えてみれば、それほど、大きな問題ではない気がしてきました。

 

今日も、両親が、運動会の後、我が家にきてくれて、一緒にご飯を食べることができました。

来年、同じようにできる保証はないんですよね。

 

感謝の気持ちが溢れてきたら、不満はだんだん小さくなってきました。

 

ありがとう。

 

保護者にとっての英断は、子どもたちにとっては……

明日は、息子の運動会……の予定。

天気予報は、くもりのち雨……

 

運動会をやるのか? やらないのか? は、家族、特に母親にとっては、弁当を作るのか? 作らないのか? に直結する。

 

「最終的な判断は、当日の朝7時にメールでお知らせします」と、息子が持ってきたプリントに書いてあり、参ったなって思っていた。

しかし、である。

 

2年前に、同じような状況、いや、もっと降水確率が高くて、だけど、確か翌日の日曜日は晴れの予報だった時、金曜日の午前中の時点で「日曜日に延期します」というメールが来たのだった。

 

今回は、午前中の降水確率40%、午後は80%、しかも、翌日の日曜日は、終日90%。土日に行えない場合は、10/2火曜日に延期になってしまう。

 

どうするんだろう?

お弁当のことを考えると、さっさと決めて欲しいけれど、自分が先生の立場に立ったら、超難問だよな! 決められないよな! って思った。

 

あー今年は、当日の朝7時かな? 連絡が来るのは……

そう、半ば、あきらめかけていた時、メールが来た。学校からだった。

 

「午後から雨が降る予報に基づき……

そう始まったメールには、開始時間を早め、午前中で終わるようにプログラムが組み替えてあった。

「お弁当はなし」

 

やったー!

あとで、LINEでやり取りしたママ友の多くが、お弁当がなくなったことを喜んでいた。

 

プログラムが、短距離走短距離走、ダンスはダンスとまとまってしまっていて、運動会、というよりは、記録会のような形式になってしまって、びっくりはしたものの、先生たちの英断によって、「本当に良かった」と保護者たちはホッとしていた。

しかし、である。

 

当の子どもたちは、とてもがっかりしていたようだった。

 

息子も、お弁当がなくなってしまったことをとても残念に思っていると話していたし、クラスの何人かは、先生に詰め寄っていたらしいと聞いた。

 

あーそうなのか!

喜び過ぎたことを、ちょっと反省した。

 

午前中に終わる運動会、最高!

来年から、これが基本になったっていいよな!

なんて思っていたことを反省した。

 

そうか……子どもにとっては、お弁当を食べることも、運動会の楽しみの一部なんだな。

 

明日は、近くに住む、私の両親も、運動会に来る予定だ。

せめて、我が家で、息子と旦那と私、そして、両親で、お弁当気分を味わおう。

 

おっと!

ここで、持っていかないのに、弁当を作るという選択肢は、ハードルが高い。

 

雰囲気だけで申し訳ないが、「あのダンス良かったね!」とか言いながら、食べるから、息子よ! 許して欲しい。

息子の人間関係がだんだんと……

息子の人間関係が、だんだんと、複雑になってきている。

 

Aくんも、Bくんも、好きだけど、二人の関係があまりうまくいってないのを察して、Aくんと一緒にいるときは、Bくんに話しかけにくいとか。

 

C子ちゃんのことが、ずっと大好きだったけど、小悪魔的な部分が面倒になり、マニアックな話ができるD子ちゃんと話すことが楽しくなったり。

 

私に話してくれることなんて、多分、出来事や感情の一握りであって、息子の心の中は、もっともっと複雑なんだろうな。

 

誰々と仲良くしてくれたら嬉しいなとか、誰のママはちょっと話しにくいから、面倒なことにならないといいなとか、親には親の都合や思いがあるけれど、そんなこと関係なく、彼らの時間は流れていく。

 

遊んでいるところを見て、楽しそうだなと、私まで嬉しくなることもあれば、息子が思いの外、乱暴な言葉を使っていて、ヒヤヒヤすることもある。

 

どこまで、介入し、どれだけ寄り添えばよいのか、リハーサルもないまま、本番が続いていく。

 

親として、きっと、未熟なまま、子育てを終えることになるんだろうな。

 

ひとりっ子の親は、最初で最後の、その年齢の親だから、つい、力も入っちゃうけど、自分で考えることも、人の話を聞くことも、疎かにはしない程度に、力を抜きながら、一緒に成長していこう。

 

人の子の成長がまぶしく感じて、胸がちくっとしたけど、そんな時ほど、我が子のいいところを探して認めよう。

そう思った。