涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

夢を生きがいとして~高校2年生の時の《聞き書き》~【前編】

私が高校2年生の時の国語の授業で、

聞き書き》がありました。


私は、父を《聞き書き》の対象に選び、

小さい頃のことを聞きました。

そして、「私は、・・・」という一人称で

文章を書きました。


初めての書き方でしたが、

この機会を得て、

父の知らなかった一面を知ることができました。


年末の大掃除で、文集が出てきたので、

【前編】【中編】【後編】の3回に分けて、

紹介させていただきます。

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《夢を生きがいとして》


私が、現在(1989年)、

自動車整備士を職業としているのは、

私が社会に出て働こうという時に、

自分の意思をいうものよりも、

むしろ時代的環境的な事情で、

この道を選ぶことしかできなかったからだ、

といってもいいだろう。


私が生まれたのは昭和11年9月15日、

東京都墨田区本所のある酒屋だった。

父母、祖父母そして12歳離れた腹ちがいの兄、

叔母と私で7年の大家族だった。


数え年で8歳の頃、

私はある国民小学校へ入学した。

入学前から時々、覗き見していたプールも、

アスファルトでできた運動場も、

これからは自由に使えるのだとうれしく思い、

また体育館に吊り輪や肋木が

あったのを見て感動したのは今でも記憶している。


しかし、戦争が激しくなり、

そんな平凡でも平和な生活を捨て、

そして住み慣れた土地を離れ

両親の田舎の広島県疎開しなければ

ならなくなった。

それは私が小学校へ行き始めて、

丁度一年たとうとしている時であった。


私の母の実家は広島県呉市広町という

ところにあった。

私達親子は住む家が見つかるまで

そこに世話になっていた。

小学校の教師をしていた母だったが、

時代が時代なので

家業に忙しく私の転入手続きさえできずにいた。

そんな母も時間を見つけては、

掛け算の九九の巻紙を作って与えてくれ、

よくそれを繰り返し繰り返し見ていたのを

覚えている。


その頃からだったろうか、

私は何か自分の手で作ることが

好きになっていた。

だから農作業に必要な機械の模型を作ってみたり、

竹細工で、梯子を作ってみたり、

あるいは、水に浮く乗り物を制作しようと

設計図まで書いたこともあった。


母の実家に世話のなり始めてから半年過ぎた頃、

同県竹原市に住居が見つかり

父母私の三人と東京に残っていた祖母、叔母、兄で

また住むことになった。

祖父はその時、支那、(今の中国)に

商売をしに渡っていた。


考えてみれば、この家に移ったことが、

私の人生、

少なくとも職業の舵を決めたのかもしれない・・・




夢を生きがいとして~高校2年生の時の《聞き書き》~【中編】に続く・・・