涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

夢を生きがいとして~高校2年生の時の《聞き書き》~【中編】

私が、高校2年生の時に、

『父の半生』を《聞き書き》した【中編】です。

よろしかったら、【前編】から、お読みください!


夢を生きがいとして~高校2年生の時の《聞き書き》~【前編】 からのつづき




考えてみれば、この家に移ったことが、

私の人生、

少なくとも職業の舵を決めたのかもしれない。


というのは、この家の評判は

近所であまりよくなく、

『この家に住む者は

あまり長く続かない』とのことであった。

確かに、日の当たらない細長い家であったが

隣の家も同じような感じだったので、

あまり気にしていなかった。


しかし、本当に大変なことが起きてしまった。

初めに私の妹が生まれてすぐに亡くなり

次に生まれた弟も3歳で亡くなった。

翌年、母がそれを追うようにして亡くなり、

祖父、祖母とも亡くなった。

私が小学校5年の時、父は再婚し、

新しい母ができたが、2年としないうちに

今度は父が亡くなった。

昭和18年から25年までのうちに

私は6人の家族を失った。

周りから見るといつも葬式の我が家は

奇妙に映っただろう。

とても悲しかったのは今でも忘れていない。


そして私は、当時26歳の兄夫婦の家に

中学を卒業するまで世話になることになった。


そして、卒業式の次の日、私は東京に出て、

以前一緒に住んでいた叔母夫婦が自動車屋を

やっているからとそこに行くことになった。

近所の人は別れを惜しんでくれたが、

私は、幼い頃住んでいた

東京への憧れでいっぱいだった。

そしてまた、自動車本体を作れると思い

期待で胸がいっぱいだった。

何か自分の手で作れることがうれしかったのである。


しかし、期待は裏切られ、

叔母夫婦の家は整備工場だった。

『何だ、作れるんじゃないんだ』と

15歳の私はショックを受けたのだが、

まあ仕方がないと頑張ることにした。


それから私は、

仕事をしながら夜学へ通った。

しかし、そこの主人つまり義理の叔父は

いわゆる妾をつくってしまい、

仕事もそこそこで、

夕方になるといなくなってしまうことがしばしばだった。

私は、叔父の整備の技術を

見よう見真似で習っただけなのに、

一人で工場の仕事をしなければならなくなってしまった。

叔父は集金すると、

そのほとんどを持ち出すので、

実際には

残された叔母と幼いいとこ3人を、

まだ20歳前の私が食わせていかなければ

ならなかった。

その日暮らしの毎日で

たった一つしかない背広を手放したこともあった。

給料もろくにもらえず、

朝から夜中まで、時には、明け方まで

働いてもさばききれないほどの

注文で忙しい毎日だった・・・



夢を生きがいとして~高校2年生の時の《聞き書き》~【後編】へつづく・・・