涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

ひと月ほどの不調が回復する兆しを感じている今、書き留めておきたいこと

ひとつひとつは、そう大したことではないけれど、小さな問題が一気に押し寄せ、地味にパニックになったり、フリーズしたり……。

 

ここひと月くらい、調子がよくなかった。

 

正直、全てを放り出して、どこかに逃げ出したくなった瞬間も、何度かあった。

だけど、それを選択するほどには、多分、冷静さは失っていなかったようだった。

 

放り出さないまでも、気持ちを遠くに置き去りにして、ぼんやりと過ごした時間もあった。

でも、それくらいの気持ちの壊れ具合で、どうにか不調をやり過ごせたのは、問題の合間合間に、周りの人の温かさを感じたり、ああ、多分きっと、私は、恵まれているって感じられたからだと思う。

 

不調だったり、つらいと思うことって、長い人生、時々はあると思う。

 

その渦中にいると、プラスに考えることも、ままならない。

形だけでも、そう考えたフリをしても、拗ねた気持ちを手放すことはなかなか難しい。

 

そんな時は、「ああ、今は、不調なんだもの、仕方ないよな」とちょっと緩めて考えることができると、少し心が楽になった。

 

それに、本当だったら、目の前にある物事を全てうまくこなせたらいいのだけれど、それができそうにない時は、助けて欲しいと言ったり、このままではうまくいかないと思うと状況を、伝えるべき人に伝えることも大切だと実感した。

 

自分のささやかなプライドのせいで、物事を滞らせてしまうよりも、助けを求められる勇気を持つ方がずっと必要だと思った。

 

でも、こんな風に、少し冷静に、物事を見られるようになったのは、ほんの少し気持ちに余裕ができたから。

 

だから、多分、また、落ち込む時は、落ち込むだろう。

 

ここに覚書を書いて置くことで、できることは、「きっと近い将来、回復するんだろう」って微かな希望を持って、不調をやり過ごすことだけだと思う。

 

うん。

でもそれでも、それだけでも、いい。

 

なんか、こうして、文章を書けていることが、とても嬉しい。

 

それだけで、なんか、いいんだと思える。

 

歳を重ねるごとに増える役割を持て余す日々について

ー今日は、程よく忙しくてよかったです。

 

はるか昔のことだけれど、銀行員になりたての頃、毎日、業務日誌を書いていた。

業務日誌だけれど、結構プライベートなことや、ニュースなどの感想を書く日もあって、我ながら、無邪気過ぎたと反省するけれど、課長との交換日記のような部分もあって、結構楽しかった。

 

仕事には、厳しい課長だったけれど、毎日一行はコメントを書いてくれて、そのほとんどは温かいものだった。

 

時々、無邪気過ぎて、怒らせることもあって、赤鉛筆が折れた跡が残っている時もあったけれど……。

 

まあ、それも、新人の私の仕事に対する甘さを戒めてくれるものだったので、当時は怖い思いが強かったけれど、今思えばありがたい喝だったと思う。

 

で、またある日、無邪気に、冒頭の

ー今日は、程よく忙しくてよかったです。

を書いたのだった。

 

確か、課長は、ノーコメントで、その時は、副支店長が

“面白い表現だね”

って書いてくれたのだった。

 

面白いかな?

面白さはよくわからなったし、課長がノーコメントで「もっと働け!」とメッセージを送ってきた気もした。

 

だけど、

程よい忙しさ。

今も、それを心地良く思う。

 

暇すぎても、忙し過ぎても、なんだか落ち着かない。

バランスのとれた、程よい忙しさが、本当にいいなと思う。

 

歳を重ね、結婚し、母親になり、仕事もし、親も高齢になると、知らないうちに、いろんな顔、役割を担っていることに気づく。

 

そのどの立場でも、平時に想定する「理想の振る舞い」を、いざ、しようとすると、実に、難しい。

 

いつも暇という訳ではなく、結構、スケジュールがいっぱいだったりするから、そこの入ってくる想定外の役割を求められると、その他の部分にしわ寄せがきて、途端にバランスを崩す。

 

必ずしも、自分が大切なことや人を、本当に大切にできる訳もなく、むしろ、他人に気を使って、身近な人に勘弁してもらうことも多い。

 

そして、自己嫌悪に陥る。

 

わがままと、自分を大切にすることとの区別が、未だによくわからない。

 

明日も、そんなこんなで、たくさんの役目のうち、そのいくつかを果たせないことになりそうなのだ。

 

体がもっといくつもあったらいいのにと本当に思う。

 

あの業務日誌を書いていた、無邪気な若い頃が羨ましく思うけれど、あの時はあの時で、いろんな悩みがあったっけ。

 

その時、その時に、どうにかこうにか選択して、進んでいくしかないんだな。

 

とりあえず、目の前のことを精一杯こなし、果たせない役割に対しては、誠意を持って、できうる限りの埋め合わせをしようと思う。

 

 

運転免許証の更新

今日は一日中雨の予報だった。

 

晴れたら、自転車で、どうにか行けそうかと思っていたけど、カッパを着て自転車で行くことは躊躇した。

歩きと電車で1時間弱。

 

少し面倒にも感じたけれど、今日を逃すと、また、いつ行かれるかわからないので、思い切って出かけた。

運転免許証の更新に。

 

働いているといってもパートだし、PTA役員といっても毎日活動しているわけじゃない。

でも、そこに、家庭の用事を加えると、自分が自由に出かけられる時間は意外に少ないのだ。

 

フルタイムで働いている時期とは、また違う理由でなかなか運転免許証の更新に行く時間が作りにくかった。

 

5年前。

更新前の免許証の写真を見て、思い出してみる。

年齢的には、息子が年中の時か。

 

息子が幼稚園に行ってる時に行ったのかな?

正直あんまり覚えていない。

 

だけど、10年前のことは、よく覚えている。

 

息子がお腹にいて、切迫流産と言われて、絶対安静と言われた時期だった。

 

免許証の更新に行けるか?

行くべきか?

諦めるか?

 

布団の中で悩みながら過ごしたっけ。

 

出血が落ち着いたから、じゃあ、タクシーで行こう。

 

そう決めて、不安に思いながらも、免許の更新に行ったのだ。

 

そうだ。

タクシーの運転手さんが、路地まで入ってくれて、Uターンが大変そうだったな。

 

妙なことばかり、覚えてるものだ。

 

免許の更新も、出産も無事だった。

よかったなぁ。

 

講習を聞きながら、いつも、ちょっと、胸が痛む。

 

ゴールド免許はよいけれど、そりゃそうだ、ペーパードライバーなんだもの。

 

優良講習の何パーセントが、ペーパードライバーかな?

 

高い身分証明書で、親には申し訳ないが、せめて、更新し続けたい。

 

とりあえず、歩行者として、自転車に乗る者としても、安全には気をつけたいと思う。

 

5年後、また、無事更新できますように!

 

 

うちの子に限ってという幻想

ここ2週間くらい、何かと不調だ。

 

どういう感じか、説明する言葉が見つからなかったけれど、今日、旦那に、心境を話していて、なんとなく言い得ている表現が見つかったと思ったのが、「今まで使ったことのなかった体の筋肉を使うことになり、どうにかこうにか使ったものの、うまく使えていないような感じ」だ。

 

致命的なことには、幸い、至っていない。

それは、私がすごいのではなく、周りに助けられて、どうにかなったという感じだ。

 

まずは、子育てで、打撃を受けた。

良かれと思ってやっていたこと、いや、良かれと思っていたというか、様々考えて、迷いながらもそういう接し方を選んできたというか、平たくいうと、過保護すぎる部分で、自分の甘さが出た。

 

ママ友であり、子どもを通して知り合ったけれど、私自身の友だちとも言える人に、気づかないことを気づかせてもらった。

 

それに、もう一つ、いわゆる「うちの子に限って」という発想に知らず識らずの間に包まれていて、子どもが他の子を傷つけていたことを認識できないでいたのだ。

 

そのことにも、なかなか気づけず、彼女が言いにくいことを指摘してくれて、気づかせてもらった。

 

それは、それは、衝撃的出来事だった。

 

そして、そのことを、どう解決するのか? ということもよくわからなかった。

親が、どの程度サポートするのか? 自分で考えさせるのか? 相手の親にお詫びするのか?

 

全てが初めての体験だった。

 

息子が大人しいタイプであるということで、被害者にはなっても加害者にはならないだろうという慢心があった。

 

だけど、成長する上で、様々な変化があり、我が子を信じると共に、人として、間違ったことをしているかもしれない可能性もゼロにしてはいけないということを知った。

 

疑うという訳ではないけれど、人間である以上、完璧などではないのだから。

 

叱ることも苦手だ。

 

息子が繊細であるのがわかっているので、きつい言葉で傷つけてはいけないことを重視していたから、どうしても遠回りな言い方になってしまう。

 

ダメとか、命令形とか、そう言った言葉を避けていた。

 

多分、その言葉を使わなくても、伝えることはできるのだろうけれど、感情的にもなり、なんだか気がついたら、私が泣いていた。

 

泣いたことで真剣なことは伝わったようで、苦手な「ダメ」も使って、本人の口から謝るという言葉を引き出せた。

 

でも……。

 

息子が泣きながら、悔しい気持ちも伝えてくれた。

息子が、お友だちの話を聞こえないフリをしたのは、その前の、その子の態度が嫌だったからなのだということも、知ることができた。

 

そうだったんだね。

でもね、だからと言って、「聞こえないフリ」はしちゃダメだよ。

 

お友だちは、息子に「無視された」と感じて、傷つき、また、息子に対して、睨むという抵抗をし、そして、息子がそれにまた傷つき……。

 

翌朝、息子が震えながら「話したいことがあるんだけど」といい、その子が「何?」と言って「聞こえないフリをしてごめんなさい」と言ったのだ。

 

そうしたら、その子が頷いて「もうしないでね」って言って……。

 

ホッとしたのか息子は「どうしてあんなことしちゃったんだろう」って言いながら泣いていた。

 

背中を押してどうにが学校へ送り出した。

 

その日は、どうしたかなってずっと気になっていたけれど、相手の子が、話しかけてくれて、普通に話すことができたらしかった。

 

ありがたかった。

 

一人っ子ということは、私にとって、息子の子育てが最初で最後。

ずっと初心者で、オロオロするばかり。

 

いいと思ってやってきたことが間違いというか、うまくいかないと知った時、絶望的な気分になった。

これからどうしたらいいのだろうって思った。

 

でも、わからないことを気づかせてくれる本当にありがたい大切な友だちがそばに居てくれること、そのことが本当に幸運なことなんだなって思った。

 

それ以外にも、色々あって、今、咳喘息とやらになり、なんだか浮かない。

 

でも、それでも、こうして文章にしてみたら、いかに、恵まれているかに気づけた。

 

不調なときは、まずは、目の前の一歩をしっかり踏んで、どうにか乗り切ろうと思う。

 

チームなのか? グループなのか?

「チームなのか? グループなのか?」

 

10日くらい前に、仕事のことで相談した友人に言われて、ハッとした。

いや、ハッとしたんじゃない。

グサッときたんだ。グサッと。

 

私は、あまり、人に注意ができない。

注意をしようとすると、「これは本当に注意するべきことだろうか?」という疑問が湧いてくる。

そうこうしているうちに、「自分は完璧にできているのか?」「自分が黙ってやっておけばいいんじゃないか?」などなど、様々な自問自答に包まれて、言葉を飲み込むか、オブラートでぐるぐる巻きにして、本当に言いたかったことがわからないくらいに回りくどくなってしまう。

そんな感じだ。

 

伝える方法も下手なのだ。

本当は、気づいて欲しいメッセージも、「もしかしたら、忙しいかもしれないから」と電話はできず、文章でしか伝えられない。

 

何も、これは、仕事に限ったことではない。

ボランティア活動は、なおさら厄介で、善意で集まっている人たちに向かって、あれをやって欲しい、これをやって欲しいが、言いにくい。

 

それでも、バランスを保って、どうにかやっていられるなら良かったけれど、ここにきて、なんだかとても疲れてしまった。

 

シャンパンタワーの一番上のグラスがカラカラになってしまったのかもしれない。

 

疲れてしまって、「実は……」と困っていることを相談した時のことだった。

 

「遠慮してしまって、言いたいことが言えていない」

 

そう言った時、友人に

「チームなのか? グループなのか?」

って聞かれたのだ。

 

グループとは、目的の有無を問わないだたの集団であるのに対して、

チームとは、ある目的を達成するために集められた人の集団、そして、メンバーがそれぞれの役割を果たすことでチームの目的達成に貢献する集団である、というのだ。

 

だからこそ、メンバーの間での意見の衝突を恐れず、意見をぶつけ合うことから新しい価値が生まれる……。

 

そうか……でも難しいな……。

 

「それが今のあなたの課題だね」

温かくも、厳しく、キッパリ言われて、ぐうの音も出なかった。

 

それから、少しして、いよいよつらくなり、会社の中で信頼できる人に、悩みを打ち明けてみた。

真剣に聞いてくれた。

嬉しかった。

少し楽になった。

でも、話しながら、自分の至らなかった点や、もっと改善すべき点も見つかった。

 

程なくして、私の思いを、会社の人たちに伝えてくれたので、仕事が少しやりやすくなった。

ありがたかった。

でも、本当は、自分が、自分の言葉でしっかり伝えるべきだったのではないかと反省した。

 

そのあと、また一つの問題が起きた。

自分なりに考え行動しようとした時、また、「自分が黙ってやってしまえばいい」ということに逃げようとしていることに気づいた。

 

それを気づかせてくれたのも、また、仲間だった。

 

仲間の成長のため、自分の成長のため、そして、共通の目的のため。

 

意を決して、自分なりに思いを伝えたつもりだった。

でも、うまく伝わらなかった。

もどかしかった。

だから、もう一度伝えてみた。

 

正確に伝えられたのか、わからない。

傷つけてしまったかもしれない。

また、言葉足らずだったのかもしれない。

 

今でも、正解だったのか、わからない。

 

そして、本当は、本当に怖かったのは、嫌われてしまうのではないか? という不安だったと思う。

 

一緒に仕事をしたり、活動をしている人たちとは、仲良くやりたい。

できれば、好かれたいし、いい人だって思われたい。

 

だから、相手が不快に思うだろうってことは言いたくなかったのだ。

 

だけど、それは、チームだろうか? って考えると、違う。

 

チームが目的を達成するために、苦言を呈することは、やはり、時には必要なのだ。

 

だけど思うのだ。

多分、苦言を呈するだけでは、充分でなくて、それ以上に、仲間の良さを見つけて、認めて、伝えることが大切なのではないか、と。

 

つい、忙しくなると、あれが足りない、これが足りないと、ないものばかりに目がいってしまうけれど、そんな時こそ、いいところ探しをしたいと思う。

 

実際、仲間のいいところ、たくさん見つけてはいるのだ。

ただ、それを充分伝えられていないことが反省点だ。

 

大切な大好きな仲間だからこそ、一緒に成長していけるように、もう少し、頑張ろうと思う。

今日の失敗について、本題に入る前に……

今日は、とてつもなく、疲れた。

 

本当だったら、清々しい息子の冒険の一日になったはずなのに、思わぬハプニングが起こり、どっと疲れた。

 

詳細は、また、ゆっくり記述したいと思うけれど、おそらく、今日の失敗は、無駄にはならないと思う。

 

失敗から、学ぶことはとても多いとわかっているけれど、やはり、最初から失敗するとわかっていることはやりたくはない。

少なくとも私は、そう思ってしまうタイプだ。

 

そして、息子も、私にそんなところが似ていて、失敗するとわかっていたら、やらなかっただろうと思う。

 

しかし、不安でいっぱいだった息子が、思い切って、挑戦したところ、思わぬところでしっぺ返しをくらい、門前払いを食らってしまったという結果だった。

 

平たく言うと、失敗した。

 

私も振り回されて、どっと疲れてしまったけれど、失敗に隠れてしまった、「挑戦した勇気」を讃えながら、今日は眠ろうと思う。

 

詳細は、近々また。

 

誰が悪いわけでもないけれど、反省すべき点はどこにあるのか? も考えながら、描いてみたいと思う。

 

それにしても、どうしたら、ベストだったのだろうか?

 

だけど、このことは、きっと、無駄にならない。

そう信じたいし、そうしたい。

 

 

 

モヤモヤ解消法

今朝は、なんだかコンディションが悪かった。

 

まだ、眠いのに、目が覚めてしまったのだけれど、少し、胸がムカムカした。

 

トイレに行くと、お腹の調子もイマイチだった。

 

ああ。

 

熱はおそらくない。

万が一熱があっても、仕事だから、大丈夫だと思い込んだ。

 

本当に体調が悪いのか? それとも、数々の懸念事項が原因で、気持ちが落ち着かないのだろうか?

 

それか、昨日のいくつかの失敗が、尾を引いているのか?

 

不調の原因を探るよりも、どうしたら、不調から抜け出せるか考える方が建設的だということには、弱まりながらも気づいて、あまり動かない頭を無理に回転させると、とりあえず、書き出すことだと思いついた。

 

確かに、この不調と不安は、頑張っても、懸念事項から解放されないのではないかと思うからのような気がした。

あれも、これも、と頭の中でこんがらがっている状態では、どうにもならないと思ったので、家事の手を止めて、「 TO DO」を書き出すことにした。

 

すると、プライベートは4つ。仕事では8つだった。

 

書き出すことで、無限に懸念事項が続くと思われていたけれど、ひとつずつ着手していけば、減って行くってことを具体的に感じることができた。

 

どうにか、息子を送り出し、仲のいいママ友と少しおしゃべりしたら、もっとスッキリした。

 

ああ、そうか。

 

私のモヤモヤは、書き出すことと、人に話すことで、だいぶ解消するんだと改めて感じた。

 

もちろん、人といっても誰でもいいわけではない。

話を聞いてくれる人がいてくれることに感謝したい。

 

もしも、やるべきことや懸念事項でいっぱいいっぱいになったら、ぜひ、書き出すことをオススメしたい。

 

きっと、一歩進む力が出ると思うから。