涙と笑顔のあいだ

HSC(ひといちばい敏感な子)高1ひとりっ子男子(2024年4月現在)の子育てを通し成長させてもらいながら、日常のモヤモヤの純度を上げるべく綴る50代ライターのブログ

私の恐れている言葉は……

この前、ふと、自分が人に言われると、嫌な言葉を考えていた。

 

明らかに、見た目の悪口も嫌だけれど、気持ちとして、ダメージを受けるだろうなと思う言葉が思い浮かんだ。

 

逆に言えば、それを言われないように、奔走しているところがある言葉。それは……「がっかりした」だ。

 

期待したのに、大したことがなかった……

もっとできると思ったのに、それまでだったか……

 

「がっかり」の前には、期待があり、それに応えられないと、おそらく言われるであろうという恐れがある。

だからこそ、それを言われないようにいつも頑張っているのかもしれない。

 

「がっかりした」という言葉の先には、きっと「もう期待しない」という言葉がある。

 

私の中では、「期待されないこと」は、「自分の存在価値を否定されること」とイコールのように感じている。

 

それは、なぜなのか?

 

そんな時

「誰かの『期待』に応えるってことは、自分の人生を歩んでいないことなんじゃないか?」

と言われてハッとした。

 

自分の人生を歩んでいない!

 

思い当たって苦しい。

 

人生の主役感が欲しい!

ここ数年そう思っていたけれど、別に、誰も止めちゃいないのに、自分でルールや禁止事項を作って、自分のやりたいことをやっていないのは、自分なんだ。

 

きっと、私がこうしたら、周りのみんなは楽だろう。

きっと、私がこう行動したら、みんなのためになるかもしれない。

 

今まで、その予測は、大方当たっていて、それなりに、感謝されて、私の心も落ち着いていた。

だけど、本当はこうしたいのに、今、そうするわけにはいかないから、我慢してこれをやろう! そう思って行動したのに、誰にも気がつかれずに終わる時、私は、悲しくなる。

 

「私がみんなのために頑張ってやったのよ!」

仮に、そう、声を大にして言ったところで

「そう。だけど、別に頼んでないし……」

「もしやるんだったら、もっとこうしてくれた方がよかったな……」

と言われるかもしれない。

それは、自然で仕方のないこと、だけど、今度はそれが許しがたい。

 

人生には、期待されて、それに応えることで、本当に人のためになり、自分のためになることも少なくはないと思う。

自分のできることで、人が喜んでくれるならば、やってもいい! いや、むしろ、やらせて欲しいと思うことすらある。

 

だけど、自分の中の「私はこうしたい!」というものを必要以上に抑えて、奉仕したところで、誰も幸せにならないのではないか?

 

ここまで、書いても、やっぱり、「がっかりした」と言われることも、「期待されなくなること」も、怖いし、寂しい。

 

だけど、どうせ、全力を注ぐならば、自分もやりたいことをやって人に喜ばれることの方が嬉しい!

 

私の身の回りにある、私がやらないといけないことや、誰かがやらないといけないこと、そういったものに折り合いをつけながら、どう生きて行けばいいのか?

 

頼まれたことも、誰もやらないことも、全部自分がやらないといけないわけじゃない。

 

引き受ける前に、断ることもできるし、誰かにお願いすることだってできるんだ。

 

本来、期待されることって素晴らしいことのはずだ。

 

大事なのは、軸を自分に置くことなんだろう。

 

不器用な自分には、笑っちゃうけれど、そんな自分にもOKを出して、これからも、折り合いをつけながら、やっていこうと思う。