家族の誰かの元気がないと、なんだか、家の空気が変わる。
重さなのか? 色なのか?
かけるべき言葉は、「元気出して!」ではないということだけはわかるんだけど、だからといって、じゃあ、なんなのか? と考えるとわからなくなり、こちらも黙ってみたり、くだらない話を話しかけて、あ、やっぱり違ったといってフェードアウトしてみたりする。
「元気出して!」じゃないとしたら、「話聞くよ」かな?
でも、温かく放っておくのが優しさの場合もあるし、うーん参った。
子どもが元気がないと、なんとなく、遠巻きに、ぼんやりとした言葉でもって、何があったのか探ってみたりするけれど、大人が元気がない場合の方が、対応に困る。
自分が元気ないときはどうだろう? と考えてみる。
時と場合か!
なんて、元も子もない答えがすぐに出た。
しかも、例えば、次に元気がない時、構ってほしいのかも、放っておいてほしいのかも、予測がつかない。
ケースバイケース。
だったら、仕方ないか。
自分なりに、気遣って話しかけてみて、あまり話しかけてほしくなさそうだったら、引いて、何か、ポツリとでも、本人が話してきたら聞けばいいんだな。
元気がない人をみると、早く元気になってほしいと、つい、思ってしまうけれど、多分、その元気がなさそうに他人には見える、気持ちが落ちている時間に、湧き上がる感情を味わったり、思考を巡らせたりする時間が、実は本人にとって大切なのかもしれないと思う。
だから、もしかすると、家庭というのは、安全に、思いっきり、気を遣わずに、落ち込むことができる空間であることが重要なのではないかと思った。
そもそも、そうそう落ち込むタイプではないけれど、そんな私だって、どんよりと落ち込みたい時もあって、そういう時に、息子にじーっと見られて、元気かどうか確認されることがつらい時も、まあ、ある。
「ユウが原因ではないから、ちょっと泣かせてもらうよ」
「お母さんが機嫌が悪いのは、ユウのせいじゃないからね」
落ち込んだり、へそを曲げることすら気を遣わないといけない状況がつらい時もある。
だから、安心して、機嫌を悪くして、元気をなくせる場所って素敵だ!
本当は、旦那に、早く元気になってほしいけれど、自分のタイミングで浮き上がってくることを信じてみようと思う。